2011.2.10 曇り
明日 2.11は、「雨、午後から雪になるだろう。」との予報だった。昨年12月から日本海側の各地は、大雪に見舞われ、太平洋岸は、晴天が続いていた。それだけに、太平洋岸は、珍しい天候不順であり、雨となる。沼津ゴルフクラブ同好会、愛伊駿会のゴルフは、明日である。
大泉製隆さんは、89才、当会の最長老である。いつも、ゴルフの当日は、大泉さんが自ら自動車を運転して、自宅から88才の鈴木菊三郎さんを迎えに行き、それから、鈴木さんと同年の小野金弥さんの自宅へ行き、そして、沼津ゴルフへ来るということを聞いていた。私たちが沼津ゴルフへの行き帰りの送り迎えをする時期だと思った。
私は、大泉さんへ電話を架けて、「迎えに伺います。」と声をかけた。
大泉さんは、くるぶしを痛められていた。
「無理してプレーをすると、その次の機会を失うので、大事をとって欠席します。」とのことだった。
小野さんの欠席は、既に聞いていた。
「鈴木さんは、どうされますか。」と大泉さんに聞いたところ、
「欠席の話は、聞いていない。」とのことだった。
私は、鈴木さんに電話を架けた。
「出席されるのであれば、迎えに伺いますが、どうされますか。」
「行きます。」7:30分に自宅に迎えに伺うことになった。
2011.2.11 7:00 私は、寝床から出た。「今日は、どうだろうか。」窓の外を見ると、みぞれ模様である。
私は、約束の7:30分に迎えに伺った。どんよりとした空を見上げた。
雲は、低くたれ込めて、雨のような雪のような、みぞれをパラパラと降らせている。
鈴木さんのご自宅の庭を通り、玄関に立った。
「ドアホーンを押していいのかなあ、押さない方がよいし、押さないと約束に反する。」と考えながら、呼び鈴を押した。
鈴木さんが、すぐドアホーンに出た。私が、
「どうされますか。みぞれ模様です。行かなくても、また、行く機会は多い。行かないことにされますか。」と聞くと、すぐ玄関に出るとのことであった。
私は、待ちながら沼津ゴルフクラブへ電話をした。
「雪がたくさん降っているといいなあ。」と、期待したが、三島と同じみぞれで、「プレーはできる」とのことだった。
沼津ゴルフへ向かう車の中で色々お話を伺った。
「最近、絵を描くに根気がなくなった。しかし、ゴルフをした後では、根気が戻ってくる。」
「こんな日にゴルフをするのは、おかしなことだが、今日は、バカをしたな、というようなことをした方が、元気が出る。」
鈴木さんは、88才になっても、私と同じような精神的な若さを持っている。ゴルフをやることに肉体的健康と精神的健康を得ている。私は、88才まで生きているだろうか、生きていて、このような気力を持てるだろうか。私は、自分の人生に、まだ、20年以上の射程距離の長さがあることを感じた。
沼津ゴルフに着くと、みぞれ混じりの天候に、ゴルフバックを積み戻し、引き返す車が数台いる。この日、ゴルフ場には、当初65組230名を超える予約があった。しかし、前日の2月10日に39組 144名になり、当日は、26組96名に減ってしまった。
会長の大野さん、青木先生ご夫婦も来られた。
「やりますか。どうしますか。」
お互いの顔を見合わせる。鈴木さんは、チェックインをして、身支度をしている。そんなことで、「やるか」となった。医師会コンペは、プレー中止となり、頴川先生が合流した。愛伊駿会は、4名減って6名のプレーとなった。
前日の2月10日、鈴木さんは、奥さんと同居のお嬢さんから、「明日、ゴルフに行くなんて、狂気の沙汰だ。私は、朝起きないし、とんでもない。」と言われたとのこと。これを、ゴルフの昼食時に話されていた。私は、そんな鈴木さんを迎えに行った、とんでもない、いたわり知らずの男になるわけだ。
「まいったなあ。確かにそうだ。」
鈴木さんは、「風邪を引かないように、ゴルフ場では、風呂に入らずに帰ることにする。」という。
私もそうした。車で、ご自宅まで送り、玄関までゴルフクラブのバックを運び、急ぎ、逃げ帰った。
2.14 朝、電話をした。
「如何でしたか。風邪など引かれませんでしたか。」
鈴木さんから元気な声が返ってきた。
「何ともありません。お陰様で、やれば、まだやれる、限界は、まだもう少し先にあることを知って元気が出ました。
また、大野さんや後藤さんのような若い人と一緒にプレーができてよかった。上手な人と一緒に回れると、参考になりました。」と言う。
私は、鈴木さんのような方と一緒に回れると、
「人生、まだ、21年は、充分ゴルフができるし、その年まで、仕事もできる。」これを感じ、これを得たい。私は、感銘を受けるだけで、私が鈴木さんの役に立つことはないだろうと思っていたが、私も少しは役に立ったようだ。
そして、「年甲斐もなく、バカなことをする。事によっては、これを行うことが若さの秘訣であり、大切である。」ことを肝に銘じた。
「終わらざる夏」浅田次郎著
鈴木さんご自身の体験が入っているとのことで、この本の購読を勧められた。鈴木さんは、陸軍士官学校を卒業され、北海道に配属、昭和20年8月15日ラジオの玉音放送で日本の降伏を知った。
この3日後の8月18日、ソ連軍は千島列島最北端の占守島(しゅむしゅとう)へ侵攻してきた。日本が降伏文書に調印したのは9月2日であるが、すでに、8月14日、日本は、正式にポツダム宣言の受諾を米英ソ中の連合国に通告していた。それにもかかわらず、ソ連軍の侵攻は、北千島列島から国後・択捉島の南千島列島はもとよりその先を目指していた。この侵攻に対し、日本軍は、激しい戦闘を展開した。この抗戦がなければソ連軍の侵攻は、北海道に及んだことであろう。戦闘の終結後、多くの日本軍人がソ連に抑留され、千島列島がソ連の実効支配下になった。しかし、誇り高く闘った先輩、同胞とポツダム宣言受諾後のソ連軍侵攻の事実を忘れてはならない。北方領土の返還は、これらの先輩の血の願いである。この本は、下巻第8章、P317から戦闘の内容を記述する(沼津・三島図書館蔵)。
私は、プレーのメンバー表を作るとき、先輩は、先輩の組として組んできた傾向があったように思う。もっと積極的に混ぜ合わせた組み合わせがよい。大泉さん、鈴木さん、小野さんの陸軍士官学校3人の方々は、「90才まで、ゴルフする約束」がある。これを実現し、更に、90才を越えてプレーをして戴きたい。我々に何かできるのではないか、その役割がある。
2011.2.14(月)後藤正治 記
この原稿、愛伊駿会のメンバーにお送りしたところ、2011.2.23 大泉さんから手紙を頂いた。
「前略、ファックスとても面白く拝見しました。冷たい雨の中をよくも頑張ったものと感心しております。
ところで、ゴルフ送迎の件、有り難いお話ですが、小生の近く百米位のところに大野さんの自宅があり、一緒にとの話しもありました。車に馴れる為に、今暫く自分で運転することにしました。鈴木君とは三島駅で落ち合い往復しておりますが、今回は、先生に自宅迄送迎していただいたと、とても喜んでおりました。小野君は、ハイヤーを利用しております。車をそろそろとは思っておりますが、身体の調子を見て、今暫くやりたいと思っております。健康第一 ゴルフのお陰です。ご自愛の程祈ります。」
と、丁寧、達筆、しっかりした字で、書いてきて下さった。
「仕方がない。」
私が「おぎゃあ!」と、生まれた時、大泉さんは、22才、偵察機に乗っておられ、戦地で激しく闘われていた。大泉さんのお顔を思い起こすと、何も、言うことはできない。自律心に敬服し、ご壮健と無事故を願い、いつでも、声をかけて下されば、伺うことを念じ、私は、事務局を務める。
2011.2.24(木)追記
ところで、このお三方は、どうして、これほど元気なのだろうか。夢がある、目的がある、好奇心が強い。それもあるだろう。更に、私は、責任感、使命感と思った。若くして散っていった多くの戦友たち、その人達の分、二倍でも三倍でも、自分が生きて、精一杯、有意に生きる。こう考えていらっしゃるのではないだろうか。
そうか、どうか、私は、伺っていない。問題は、私に元気さの根源があるか。私がどう生きるか、有意に生きるとは何か、私の生きる意味をもう一度問うことにある。
2011.3.04(金)追記
2011年から8年を過ぎた。お元気だったお三方は、今は、いない。しかし、私には、お三方の精神を心に残る。「今日は、バカをしたな、というようなことをした方が、元気が出る。」「終わらざる夏」浅田次郎著を通じて「北方領土の返還は、これらの先輩の血の願いである。」を無言のうちに伝えてきた鈴木さん、若くして散っていった多くの戦友たち、その人達の分、二倍でも三倍でも、自分が生きて、精一杯、有意に生きる思いの大泉さん、小野金弥さん、どう生きるか、有意に生きるとは何か、私の生きる意味をもう一度問うことを求められていると思う。
2019.6.29(土)追記