パソコンゲーム

 私は、ゲームソフトをハードディスクに入れない、フロッピーでも持たないようにしている。ゲームが嫌いなわけではない。むしろ、好きだから触れさせないようにしている。

 麻雀ゲームが入ったときには、土曜日、仕事をしている時間だというのに、つい手を出して午前中やってしまった。パソコンゲームから「中級レベルです。」と誉められて、午後もやってしまった。昼食は、弁当を買ってきてもらい、弁当を食べながら、熱中する。これを知らない事務の者から「今日は、仕事がはかどっていますね。」といわれる。「うーん、うん」と、返事も上の空で画面にかじりつく。

 6時が来て「もう、帰ろうかな」と思う頃、パソコンゲームから「後、もう少しで上級レベルだよ」とこちらが止めようと思っているのを知っているように、またまた、誉め言葉を言ってくる。「いやだなあー、だけど面白い」今度は、パンをかじりながら上級レベルを目指して画面に向かう。こうして、上級レベルにはなれなかったもののまあまあの手応えを感じ、そして、バカな1日を過ごしてしまったなあ、と自責の念に駆られながら、午前1時、家族の元へ帰っていった。

 これではいかん。人生を狂わせる。しかし、面白い。いろいろと頭の中で、善玉と悪玉の戦いが続いた。長い戦いの末、善玉が勝ち、ハードディスクからはずすことになった。

 しかし、人生は楽しいことばかりは続かない。ときどき、くさくさするときがあり、また、むなしい人生を感じるときがある。こう言うとき、甘いささやきが耳元にはいる。「あそこに好きなゲームのフロッピーがあるぞ。少しならいいじゃないか、やってみたら。毎日やる訳じゃあないし、こう言うときには、許されると言うものだよ。何も、難しいことばかり考えなくてもいいじゃあないか。」ーーー「もっともだ」と思う私は、いそいそとフロッピーを差し込み、またまた、ソフトに誉められることになる。

 こういう繰り返しの後、フロッピーごと、すべて廃棄処分することにした。テトリスも同じようなものだった。「君は、決して集中力がないわけではないが、これが良い方向へ使えたら、もっと、のびるのだがなあ」といつも自分自身に嘆く。

1997.2.16(日)後藤正治記

 電車に乗ると子供達がゲーム機に夢中になっているのを見る。子供の小さな手のひらにすっぽり入ってしまうほどの小ささだ。かっての人気商品たまごっちというゲーム機は、人気が高くて手に入らない時期が続いたと聞いた。このソフトは、卵から雛がかえって成長していくが、上手に育てないと、すねたり、不良になったりするという。

 マックの古い時代に作られたソフトにシムシテイというソフトがある。これは、市長の立場になって都市を運営するもので、税金の賦課や電力の生産を図りながら都市の発展を企画する。人口の増大に伴い公共施設を増設していかなければならないが、税金を増やしすぎると、人口が減少していく。また、余りたくさんの原子力発電所を増設すると原子力事故になったり、公害が発生するというゲームである。たまごっちは、こんなソフトの似たものと想像し、ゲーム機もテレビゲームのような大きさかと思ったが、手のひらサイズで驚いた。親は、プレミアム付きでも子供の求めで購入していったという。こんな小さい機械に向かって動く電車の中で集中しているのを見ると、目が悪くなるだろう、頭も痛くなるだろうにと心配する。

 こういうゲーム機やソフトの人気に刺激されて、若い頭脳が新しいゲームソフトの開発にしのぎを削っている。1つのソフトの成功で何億円の報酬が入ったという成功談やある著名大学の卒業生達がゲームソフト作成の新会社を作ったという話がテレビで報道されたりしている。しかし、「待てよ。」と思う。

 人が生きて行くには、農業や工業などが不可欠で、ゲーム機やゲームソフトで世の中の基礎的生活が支えられるわけではない。パソコンで仕事をするのは、クリエイティブだといわれるが、ゲームをやることやゲームソフトを作ることが、期待されているわけではない。ゲームを作ることより農業や漁業の方がクリエイティブではなかろうか。ゲームソフトの開発会社を設立することがベンチャービジネスと言われるのでは、おかしい。もとよりゲームを否定するわけではないが、距離を置くことが必要だ。ゲームで遊んで育ち、大きくなってゲーム機を作る会社に就職し、ゲームソフトを開発する人たちをみても喜べない。国は、社会は、どうなるのかと心配になる。生きていくための資源は、耕作など身体をはって作るものと思う私にとって、ゲームソフトやゲーム機の華やかさには虚しさが走る。自動車の発展と交通渋滞や排気ガス公害を見ていると、パソコンゲームの人気とその結末がだぶって見えてくる。

1999.4.05(月)追記