美の芽ばえ

 私は、ふだん美術というものに縁がない。司法書士などという法律を職業としていると心に一致するものがなくなるのであろうか。仕事が終れば会合や付合いで外へ出たり、家で読書か、テレビかというように時の回転は動的であるが単調にてして且つ惰性的に運ばれると、美術というものいわぬ世界には仲々とけ込めないのかも知れない。それでも佐野美術館友の会へ入って鑑賞する内に、私の不毛の美術の地に、ほんの少し芽が出て来たようだ。

 私は元来、絵というものは写美的なものが正当な絵であって、抽象的な絵は邪道であると感じていた。例えば、風景を描くにしても道があれば道を描き、石があったら石も描く、そして水溜りでも何でも事物の実際と同じように描くという、いわゆる写実主義の観念が強かったのである。従って、絵画は、写実的なものを好んだ。

 ところが、山水画展を見ていたら写実派オンリーの考え方が変ってきた。山水画は、自然を見て印象の強い所だけ描くという感じだ。いわば、写実派は、土をシャペルでとれば、それを形が変らないように紙に載せる。山水画は土をふるいにかけ、大きい石である印象を紙へ載せるという感じがする。

 私は、ここで考えた。絵を画くということは、人間の知的活動の一つである。事物を見、それを何号かの自由な世界に再現する時、人間のすべての感覚やエネルギーがぶつけられるが、その出来た絵が写実画ばかりとしたら、人間の所産としての絵画は大変狭隘なものになると気がついた。絵が描かれる時は、人間の感覚と想像カによってふるいにかけられたり、おし拡げられたりする。

 人間の頭脳は写真機ではない。自然なり何なりを見、それが人間の頭脳を通ってから再現されてゆく以上、再現された絵は、写実画、抽象画等、幅広い絵が個々人の個性と感覚の中から生まれ描かれてゆくべきだ。私は、抽象画の存在意義が少し解った。私は、今までより抽象画を理解するようになるだろう。

佐野美術館友の会会報原稿

1969.8.5(火)後藤正治 記