雨の中のバラ

 早朝から豆腐作りを始める。豆腐作りを終えると、次ぎは、加工品のあぶらげ、厚揚げ、がんもどき、焼き豆腐作りに移る。加工品の下作りを終えると、10時頃になる。そこから豆腐売りに出かける。

 午前中に豆腐売りに出かけるのは、箱根山系の村落である。私の売り場は、国道1号線方面か、静岡県三島市玉沢方面の2つになる。国道1号線方面は、塚原新田、市山新田、三ツ谷新田、笹原新田、山中新田と売って歩く。玉沢は、玉沢本村と、玉沢妙法華寺を過ぎた本堂裏、奥山、桑原、台崎と村落が続く。

 春先は、菜の花が溢れ、すみれ、タンポポ、野の草々もかわいらしい花をつける。夏は、汗を拭う日となり、せみの鳴き声がかしましい。秋は、サツマイモや陸稲の収穫があり、山栗が道ばたに転がり落ちる。冬は、自然も殺風景となり、時に、雪に覆われる。

 豆腐売りの競争相手は、玉沢方面では、私と同じ谷田小山中島の増田魚屋さんだ。先を越され、魚を売られると、売り上げがグンと減り、豆腐や加工品が売れ残るので、台崎、更には、三ツ谷新田まで足を伸ばして、売りに行かなければならなくなる。農家の方々が、魚も、豆腐も、両方買ってくれるといいが、野菜の大豆でできた豆腐より、魚の方に目が行くようで、魚屋が通過した後に豆腐を売りに行くと客足は、ぐっと減る。だから、彼が売りに出るか出ないかが問題だ。彼が今日、玉沢へ売りに行くというのであれば、玉沢方面は、避けて、国道1号線方面に行った方が良くなる。しかし、彼が売りに行くリズムは分からない。

 そこで、私は、『玉沢の森本だけれど、今日は、来るの?』、ある時は、『玉沢の野口だけれど、今日は、来ない?』と、増田さんが行商に行くかどうか、電話する。増田さんは、

「昨日、行ったばかりだから、今日は行かない。」

「今日は、忙しいので、行けない。」

「今日は、行くよ。」

 こんな回答となり、私は、これらの情報を下に売りに出かける。増田さんが行商した3・4日後が、買い貯めした魚の在庫が減るから一番いい。情報収集が功を奏する場が多かった。

 快調な売出しを期待して、行くと、

『あれ、増田さんがいる。変だな。』

増田さんは、競争相手だが、人柄のいい方で、私は、挨拶をよくする。

『増田さん。こんにちは。いい天気ですね。売れ行きどう?今日は、来る日なの?』

「忙しいんで、来るつもりではなかったんだけれど、電話があってね。前、来た日から日が空いていたので、来ることにしたんだ。」

『あれ、失敗。俺の電話だ。これが原因で、来てしまったか。』

こうして逆効果のこともあり、情報収集はいつしか、しなくなってしまった。

 玉沢本村、本堂裏を売り終わり、奥山に入った。奥山は、10軒ほどの集落だが、中ほどに妙法結社という神社がある。神社の参道へ上がる手前に、台崎、三ツ谷新田に通じる道路が走る。道路の端を見ると、道路に沿って細長い花壇があった。ここには、ある時はチューリップ、時にダリアの花を見た。しかし、今日は、雨、ここには、バラがあった。バラは、こぶし大の大きさの真紅のつぼみをつけている。根元からは、ピンクの新芽が60cmほどの長さにグングンと伸びていた。新芽の針も初々しく、6月の雨は、奥山部落を包み、バラに降り注いでいる。私は、その鮮烈さに目を見張った。

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の

針やはらかに春雨のふる

 定時制高校のとき、国語に出てきた正岡子規の歌が浮かび上がってきた。『この歌のようなバラが本当にあったのだ。』言い知れぬ感動があふれた。この花壇は、長塚さんの奥さんが丹精して育てていたものだった。私は、奥さんにバラの枝を1本貰い、家に持っていって挿し木にした。1年が経ち、このバラは、我が家に根付いた。

 24才、豆腐屋から司法書士になり、苦しい司法試験が始まった。挿し木にして2〜3年後くらいから、このバラは、毎年、こぶし大の大きさの真紅のつぼみを付け、6月には、春雨の中にあった。5月は、短答式試験があり、6月は、論文式を迎える精神的に厳しい時期だ。こんな時、このバラは、玉沢の思い出を蘇らせてくれた。あのころは、司法試験の勉強すらできなかった。今、苦しいけれど、試験を受けることができる身分となった。バラは、明るく励ましてくれた。

 試験が10年の長きに渡った。私は合格するのだろうか、こんな日が続き、バラへの配慮をなくしていた。このバラ、今はない。どうなったのだろうか。どうしたのだろうか。このバラを失わせてしまったことは、私のミスだ。

 6月、バラ園に行くことがある。花屋さんの店頭で、深紅のバラと出会う時がある。いつも、短歌と玉沢の雨の中のバラがよみがえる。バラは、「あの頃と同じようにガンバっているか」、と語りかけているように思える。

2009.9.3(木)後藤正治 記

市立中学校学校評議員 原稿

2012.6.14(木)追記