東日本大震災 法律相談日誌1

2011年(H23)4月29日

 集合時間は、朝7時だった。私は、6時35分ころ家を出て、のぞみ事務所に6時55分ころに着いた。T弁護士が奥さんとフォルクスワーゲンで既に到着していた。私と同時くらいに、彫刻家のWさんがミニローバーで着いた。N弁護士はまだ来ていなかった。私が事務所の鍵を開け、風除室のドアを開けようとした時、N君が飛び込んできた。私は、ポケットに免許証がないことに気が付き、急ぎ事務所のテーブルにカメラと一緒に置いてあった免許証を持った。H弁護士も着いた。総勢6人、全員集合した。

 この企画は、津波被害に遭われた被災者の方々に何かできないか、と言う素朴なものだ。静岡県弁護士会に問い合わせたが、福島、仙台、岩手の各弁護士会は、静岡県弁護士会の派遣をまだ受け入れていない、とのことだった。多くの弁護士が、日弁連経由で派遣を望んでいるが、まだ、対応できていない。4月19日、日弁連からのぞみ事務所へ「静岡県弁護士会を受け入れる体勢はできていない、もう暫く待って欲しい。」とのファックスが届いた。福島、仙台、岩手の各弁護士会へ直接、問い合わせたところ、「日弁連経由で行って欲しい」とのことだった。しかし、日弁連では、月日を含めその企画は、定まっていない。

 我々も、ゴールデンウイークしか、長期の時間がとれない。被災地の惨状を見ると、ゴールデンウイークに座していること、遊んでいることはできない。道は、弁護士海援隊の募集に応じることである。海援隊は、N弁護士が提案した現地の法律相談実施と現状調査、居住地や仕事場の喪失に加えローンが残ることへの債務免除の法制化の活動である。N弁護士の問題意識の高さと行動力には驚嘆する。しかし、この参加にも課題があった。

 海援隊の「岩手県沿岸部出張相談」募集要項は、下記のとおりである。

 1 交通手段、宿泊場所、食料は、すべて自分で手配する。

 2 被災者支援の法律相談に必要な知識をMLなどで取得し予め勉強する。

 3 事務用品その他必要道具、配布チラシ等は自分で用意する。

 4 被災地での法律相談が思うようにできなかったとしても文句を言わない。

 5 時期 4月30日〜5月2日
   毎日、午前6時30分集合
   終了、大体午後7〜8時

 この要項は、了解した。しかし、宿泊場所を決めることができるか。毎朝6時半の集合になると朝5時起きになるが、可能か。被災地に入ることはできるか。ガソリンは購入できるか。昼食は、被災地でどのように獲得するか。タイヤがパンクした場合は、どのようにするか。若い弁護士は、体力があるが、私は、付いて行けるのか。若い弁護士達が行って、ケガなどをする可能性がある。「後藤さん、無理をしすぎた。無謀だったね。」と言われることは必定である。余震もあり得る。無事に帰ってくるにはどうしたらよいか。考えれば考えるほど、検討課題が次々と生まれた。

 私たちが、長期に法律相談などでお手伝いできる期間は、5月のゴールデンウイークくらいしかない。何か活動をしたいと決めた以上、行ってみるほかはない。こうして、海援隊に参加することにして、5日間のスケジュールとなった。

 運転は、Wさんに頼み、7時10分、出発した。Wさんは、「法律相談はできないとしても、被災者の方々に何かお役に立ちたい、自動車の運転手でもいいから手伝わせて欲しい」と参加してきた。東名高速道路に乗ると首都高の情報が入ってきた。まだ、7時30分頃というのに渋滞が始まったとのことだ。急遽、中央道で向かうことにして御殿場ICで降りた。しかし、みな、東北へ行った経験がなかったため、道不案内であり、中央道の下山サービスエリアに向かった。これは、失敗だった。中央自動車道から八王子〜JCT首都圏中央連絡道(圏央道)に入り、鶴ケ島JCT〜関越自動車道、高崎JCT〜北関東自動車道、岩舟JCT〜東北自動車道である。関越道に乗り、八王子方面から入ったほうがよかった。首都高の一つ外側の道路は、混んでいた。浦和で降り、食事をして再び走り始めた。その後は、H弁護士が運転した。しかし、埼玉県久喜、これから羽生、渋滞である。

 午後9時40分、漸く宿泊基地である花巻市花城町のK旅館に到着した。朝7時10分から14時間30分かかった。いよいよ明日から被災地に入ることになる。安堵と明日からの法律相談を思い浮かべながら就寝した。

2011.4.29(金)後藤正治 記