2011(H23)年4月30日 法律相談第1日目(前半)
5時半に目覚めた。出発前日の4月28日まで、沼津の事務所で仕事に追われていたため必要な道具をどの荷物に入れたか、あまり確認しないで出かけてきた。バックの中身を確認したところ、わからないこと多数ある。
携帯電話の充電用ソケットがなかった。携帯電話の補助電池がポケットに入っていた。レンタカーにシガーソケットはないが、パワーアウトソケットはあった。ここに差し込めるのは、ホンダ規格で一般のものは使えない、ということだった。しかし、これは、おかしいと思っていたが、やはり一般的なシガーソケットだ。シガーソケットから一般電気機器の差込口がある接続機器を初めてX市役所で試してみることにした。
6時30分に食事し、6時55分に旅館を出た。弁護士海援隊の集合時間は、出発前日、7時25分に変更された。午前6時30分から55分ほど遅れた時間に変更されたのは、3月11日から50日経過し、道路網などの整備が若干進み、目的地に向かう時間の短縮ができそうだ、ということが理由だった。集合場所は、Jホテルである。ここには、7時20分に到着した。参加人数は、東京6、横浜1、大阪1、九州1、静岡隊6名の15人だった。海援隊は3組のチームに分かれ、それぞれのチームは、別々の避難場所を巡る。静岡隊6名は、静岡隊だけで1チームを構成し、2台の自動車で回る。東京テレビの「ガイアの夜明け」という番組のクルーがきていた。これからクルーがN隊長チームの1台に5日間、密着取材とのことだ。この「ガイアの夜明け」は、後日、放映されたことを知った。
3チームは、X市役所に着いた。市役所は、高台にあった。市役所の周りには、津波の悲惨さを知らないかのように桜の花が咲いていた。「のどかな春をつげるかのようだ。」しかし、車のドアを開けると、臭気が駐車場全体を覆っていた。「これがヘドロの臭いか、何の異臭なのだろうか。」これから向かう場所は、被災地に近づくことになるので、更に臭気が激しくなっていくのか、と案じた。静岡隊の午前の担当は、A避難所とB避難所であった。19時に集合ということで、それぞれのチームに分かれて散会した。
A避難所では、多勢のボランティアが炊き出し用の野菜を洗い、切っていた。臭気はなかった。津波の惨状は余りなく、被災場所とは思えない気がした。責任者にお会いした。静岡から来た弁護士であること、事情を伺い法律相談をしたいご希望であれば、受けたいことを伝えた。
避難されている方々は、1Fと2Fに分かれているとのことだった。T弁護士とN弁護士は、1Fに、H弁護士と私は2Fに向かった。2階の避難所は、80畳くらいの広さの和室だった。入り口で挨拶をした。しかし、老人が3人だけであった。どうしてなんだろうか。私は、Sさんと言う方と話した。しかし、88歳でしかも耳が悪い、方言も強い方なので3分の1しかわからない。耳を近づけ、くり返しくり返し会話を確認しながら、伺った。お住まいの家は、近い、家に行けば片づけをしている家族がいるから、そこへ行けばよいとのことだった。生活を支えているのは、若い人達である。お住まいに尋ねることにした。金融機関の前の家とのことであった。A避難所から間近であった。Sさんの家に行ったが、誰もいない。中に入っていった。家の中は、泥で埋まっていた。しかし、人はいない。津波は、この家の1.5mの高さまで、来ていた。この高さは、家族の生命にも影響がなかったかと思われた。
Sさんを訪ねるため、近所の家を訪ねSさんの家はどこか、を聞いたところ、この家では、家の改装をやっていた。家の構えは良くKさんという方だった。Wさんは、彫刻家の立場で仏像などの木像の損害や修理を聞いていた。彼の相談は、修理を受けることまで行くようだった。
次のB避難所に向かった。B避難所は、要塞のような頑丈な作りで、高台に作られていた。所長にお会いした。ご苦労が多いことを伺った。ここは、広く、避難者は、1Fと2Fに分かれていた。
まず、お話を伺ったのは、足の悪い方だった。足が悪いので、正座できないと謝罪された。話を進めると、すぐにアナウンスがあった。「支援の名目で、銀行口座番号を聞いたりするとのことで注意してください。」とのことであった。何か、私たちのことを言われているようなまずいタイミングであった。しかし、続いて「弁護士の方が来られたので、相談があれば、相談されて下さい。」とのアナウンスがあった。ホッとはするが、このような悲惨な状態下、詐欺行為を行う奴が出向いてくるのか、と非道さに憤りを感じる。掲示板があった。ここには、安否を問うものや多数の連絡事項の紙が貼られていた。
相談者の二人目は、夫婦であった。自動2輪の販売をしている人で、7人家族。5名の息子夫婦は、仮住宅の入居ができた。しかし、自分たちは仮住宅へ移転できないので、避難所でいるしかない。3人目の方は、奥さんが中国の吉林省の人だった。ローンの支払いがあるが、困った。この支払いは、止めることと回答したが、なくなるわけではない、と話が続いた。最終的には、立法化である。4人目の方は、奥さん、息子、娘、子供の5人だった。話をするのがいやであるとのことのようだった。地震と津波で放心して、法律相談をするまでもなく、話す気力もない。相談するというのは、解決に向かう気持ちがあることであり、激しいショックでボーッとしてしまっている状況からの脱出がまず不可欠なのである。
C避難所に向かった。しかし、東京弁護士会3会が来ていたとのことでアンケートを頼んで帰った。
その後、どこへ行くか、1班、2班を電話で聞き、Yへ向かうことにした。思いのほか、遠く16kmあった。道を間違えたりしながら、たどり着いた。