東日本大震災 法律相談日誌4

2011(H23)年5月1日 法律相談第2日目

 6時起床、朝6時半から食事。7時に出発。今日は、雨だ。旅館の女将さんがお弁当をまた用意してくれた。おかずもいろいろ心配してくれたようだ。Wさんの運転で助かる。

 私は、疲れた感触が高い。こっそりアリナミンドリンクを飲む。体力については、みなは若いので、少々私の体力を私自身が心配する。

 今日は、Zを中心に回ることとし、午前は、E避難所に行く。ここは、避難者数235人である。しかし、ここではすでに東京や岩手の弁護士会が来ており、アンケートのみを渡すことで移動した。

 避難者数128人のF避難所に寄る。ここでは、数人が座っているが、家も流され船もやられ、魚棚も流された。悲惨な状況を聞く。相談者には、生きる気力がない。法律相談まで、たどり着かない。 

 避難者数86人のG避難所に行く。ここは、小さなところなので、余り弁護士は行っていないと思っていったが、会長が頑なな方で、受け付けない。避難所の方は、話したい様子を示している人も見受けられるが、受け付けてくれなかった。私は、だいぶ雑談をして和んで頂くようにしたが、失礼にあたるので、引き返すことにした。ここで、まだ、避難所の方々にほとんど差し上げていなかったサンオレンジを3箱か4箱、全部を見舞いに置いていった。相談に応じてくれようが、応じてくれなかろうが、誰に差し上げようと、意義ある見舞いになる。

 我々は、ここの桜の木の下で昼食を取った。惨状とは裏腹に、桜の花は、満開で、タンポポが咲き、ツクシンボが芽を出していた。

 午後は、大きな施設はすでに弁護士会の訪問があるだろうとの考えで、弁護士会が寄らないであろう小さな避難所を訪問することになった。H避難所は、避難者数78人であった。

 ここからさらに、I避難所に向かったところ、責任者の方々が、ちょうど食事の時間なので、弁護士のみなさんも食事をしていないだろうから食事をしろという。何度も丁寧に辞退したが、「食事をしている最中に相談ができないだろう、これから若い人たちも帰ってくるので、相談を受ける人が増えるだろう」、と話された。これには恐縮してしまった。硬い辞退は、本筋のようでいて、むしろ被災者の方々と心を通わせることはできない。形式的な対応よりも共に食事をいただきながら雑談をして、多くの方々と気心を知ることができる。夕食をいただくことにした。私の承諾を車で待機していた隊員も驚いたが、6人で、夕食をいただくことにした。沢庵と味噌汁、合掌して感謝しながら頂いた。

 食事をしてから話を伺うことになった。みな、初めての弁護士の訪問と相談なので、熱心に対応してくれた。私も正座して丁寧に深く挨拶をした。避難所には、夕食に合わせて帰ってくる人がいた。夜の相談は、労働している現役の人たちが帰ってくるので、時宜に適していた。相談者の何人かは、事態が治った後、また、津波に襲われた場所に戻りたい、と回答し、私たちはその言葉に驚いた。帰りは、みなで、玄関、そして、車の出発まで送ってくれた。ここでの法律相談は、若い方々を含め大勢の方々から話を伺うことができ、相談の意味が深かった。

 19時頃の出発となった。時間的に海援隊の集合場所である食事場所に間に合わない。海援隊Nさんへ報告した。今から避難所を出ること、集合場所には時間的に到着できないこと、避難場所において、勧められるまま申し訳ない思いで夕食を避難所の方々といただいたこと、夜になり大勢の方々がお帰りになり、昼間の相談に比べて充実した質問、回答ができたこと、隊員のみなさんによろしくお伝えください。と話した。明日、3日目は、法律相談終了後の報告会はなく、自由散会であるので、もう会うことはない。海援隊参加のみなさんとは、初日の1日のみの短時間の意見交換しかできなかった。被災者の皆様のお役に、少しでも立ちたいという思いは同じだ。みな溌剌としていた。1日だけの報告会参加は、残念であった。

 もう当たりは、真っ暗である。街路に電灯がない、店の明かりもない。道の両脇は、がれきが続き、旅館に向かうナビゲーターで示す道路は、そこかしこで通行止めである。止まるたびに、橋がない、道路がない、目印となる建物や施設がない。車を停めて、道を聞こうにも人家はすべて流されてしまっている。私がナビ役となった。声に出さないが、ここで余震の大きいのが発生して、津波の恐れとなると大変なことになる、と激しい緊張を憶えた。

 若いN君、H君、T君に今回の活動の声をかけたのは私である。T君夫妻は結婚したばかりで、Wさんも若い。よく賛同して、この法律相談に参加したものと感心したが、事故や津波に遭遇しては、申し訳ない。高台へ逃げるための山の存在を暗い中から見つけるとホッとした。1台目の私に続いて後ろから走るT車両も不安な思いで、後続していることだろう。進行方向を変え、大きく迂回して走行する形になる。向きを変えるたびに、ナビの帰宅時刻は、9時30分から10時になり、10時から10時半、10時半から11時と変わっていく。30分もうろうろと本線に戻るべく走っていると何とか、流されずに残った橋を渡ることができ、帰り道の本線に戻った。

 家内へのメールは、「いま、帰るところ。避難所を5ヶ所回り4人で30人以上の方から話を聞いた。家を流され、船を流され、ホタテ貝の養殖棚を失い大変な状況で言葉を失った。9時半頃に旅館に着くだろう。ここで、お疲れ様と一杯やるんだ。」

 こうして、9時30分に帰省。12時10分就寝。

2011.5.1(日)後藤正治 記