「トイレの状況はわるいよ。大のほうは板をまたぎ、下では豚が待っている。」と専ら本の影響ではあるが、脅かされて、シルクロ−ドの要衝トルファンへ向かった。ここはウルムチから南東へ約200キロ、次の訪問地敦煌から西へ600キロ、天山南路にあるこの地には、玄奨三蔵が講義をしてインドの帰途16年後に再び寄ったときには既に滅びていた高昌古城、西遊記の舞台にもなった赤々と燃えるような岩肌の火炎山、漢代に車師前王国の国都として栄えた交河古城などの遺跡があり、トルファンは、正に、中国西域の古都である。
ツアーの旅に単独行動ができる時間はあまりないが、お決りのコ−スとは違う自分なりの旅を楽しむのは、自由時間を置いてほかにはない。ここでのタクシ−は、ロバに2輪の荷車を付けたものしかなく運転手は13才位の少年である。お客のために日本語も勉強をしているしたたかな少年との付き合いは、値段交渉から始まる。「バザ−ル、10元、安いよ」と声を掛けてきた。中国人の1か月の収入は通常100元(日本円で4000円)からすると法外に高い金額を吹っかけてきている。私は、笑いながら「プシ−、イ−シチエン、イ−ユエン」(だめだ、1時間では1元だ)と答える。結局、5元で妥結した。町は、ロバ車が行き交い、ロバ車が溢れていた。
近代的な鉄筋コンクリートの建物がある1方で、日本の朝市に似たバザ−ル(市場)が開かれている。店は、200店とも300店とも思える数の店があり、そこには、ロバ車で荷物を運び、家族してロバ車に乗って皆買い物にやって来る。ぶどうや干しぶどう売り、ハミウリ売り、林檎売り、ナイフ売り、キャベツ売り、トウモロコシ売り、肉屋、靴屋、帽子屋、食堂、売る人と買う人とがごった返していた。私は、カメラを持ちバザ−ルに入ったが、途中でフィルムが終ってしまったので、これを交換しようとカメラの裏蓋を開けてフィルムの交換を始めたところ、たちまち20人位の子供たちの人だかりで私は、埋もれてしまった。我々日本の生活状況は、かくも変化したかと、一瞬、戦後のアメリカ兵に群がる私の少年のころを思い浮べた。
バザ−ルで「マネ−チェンジ、マネ−チェンジ」と秘かにお金の交換を求めてくる。私が、経験のためその交換に応じようとしたところ、ロバタクシ−の少年が「俺と交換しよう」と言ってきた。交換内容は、「兌換紙幣100元に対し人民紙幣100元、タクシ−代はいらないよ」と言うものだった。私は、「プシ−、イ−パイ、パシ−、ユエン」と人民紙幣180元でなら交換しても良いと、大きく出た。添乗員が交換は止めたほうが良いでしょう、と言っていたが、私が勉強のため交換したい思ったからである。
私の態度を見て、少年は、それでは120元で交換すると答えてきた。私は、また「プシ−、プシ−」だめだ、だめだ、と言ったところ、130元になった。バザ−ルの中で少年と肩を組み、歩きながら楽しいやり合いは続く。私は、「ペイチン、イ−パイ、パ−シ、ユエン」北京では180元だと言ったところ、少年は、負けずに「ペイチン、ペイチン、トルファン、トルファン」とやり返してきた。これは、要するに北京には北京の相場があるが、トルファンにもトルファンの相場があると言う意味だ。私は、これには、大笑いをしてしまった。結局、130元から135元へと上がってゆき、140元で交換交渉はまとまった。別れ際に、本当の交換率は幾らかと聞いたところ、150元であり、自分が5元、「ガ−ガ」兄が5元を取ると言っていた。ここにも場所を取り仕切る兄貴分がいるのだろうと思えた。
ホテルに到着して料金を払おうと約束の5元を出したところ、当初の料金の10元を言ってきた。私は、約束は5元だと頑張る。少年は、ゆずらない。なかなかしたたかである。暫くのやりとりの後、私の5元が通った。少年が納得して5元を受け取ったのを確認してから、お礼の5元を渡した。彼は、トルファンの市場を案内し、写真のモデルになり、私を写す写真屋さんにもなってくれたからだ。その少年の顔が笑みで溢れた。
1987年10月に見たトルファンの情景は、砂漠に現われた蜃気楼のごとく夢か幻のように思える。仕事の意欲を作るために、仕事を忘れて旅をする。素晴らしいシルクロードへ、私は、また、行ってみたい。
1988年2月18日(木)後藤正治 記