繰り返し雨に打たれ、風に吹かれて、道路に隠れていた石は、顔を出す。道路に出っ張った石は、やがて行きかう車の車輪に踏みつけられ、弾き飛ばされ、人の足で蹴られて、道路の脇に追いやられる。路傍の石は、道路にとって邪魔者で、道の傍らに忘れられていく。
子供たちに「路傍の石」を聞くと、この意味を知らない。今、私たちも、路傍の石を見ることがない。道は、アスファルトやコンクリートに舗装されて、雨が降っても、自動車が走っても、路傍の石を作り出すことはなく、どこまでも平坦な道が続く。
高校生も終わりころになり、「路傍の石」山本有三に出会った。吾一少年は、小学校を卒業してから、丁稚奉公に入り、いじめられ厳しく辛い毎日を送る。ここには、路傍の石のように踏みつけられ、蹴飛ばされて役立たずとけなされ、社会から忘れられたような吾一がいた。
路傍の石とは何だ、路傍の石で何を言いたいのだ、吾一が苦労しても俺と変わりがない、そんな話を書いてどうなると言うんだ、と本を読みながら反発と疑問が出てしかたがなかった。しかし、「艱難汝を玉にす。人間は、人生という砥石で、ゴシゴシこすられなくちゃ、光るようにはならないんだ。」と山本有三は答えた。この言葉、最初は、私に漠然としたものだった。艱難とは何か、玉にすとは何だ。人間が光る、とはなんだ。人間を砥石で、ゴシゴシこすれば、光るのか。一言一言噛み砕くことによって、苦労は苦労だけで終わるのではなく、どんな人生でも苦労で光るようになることを語っていると理屈だけは理解できるようになってきた。
我が家は、私が小学生1年生の頃、豆腐屋を開業した。当時、足踏み式の石臼で大豆を摺り下ろし、釜で具を煮る。こんな頃から、豆腐作りを手伝い、乳母車を引いて、豆腐を売っていた。学校へ行けば、「豆腐屋!プッ、プー」とラッパを吹いた格好をして、同級生からからかわれ、いじめられた。この仕事が中学校を卒業してから本業となった。私は、主観的には、路傍の石のような人間となった。「艱難汝を玉にす」の言葉に出会って、この言葉が本当かどうかは分からないまでも、豆腐を作って売る人生に、ほんの少し納得が持てるようになった。
それから3年ほどして、日大通信教育スクーリングで、司法試験を決めた。漠然とした人生に一条の光が差し込み、15年かけて弁護士になった。私の青春時代は、まさに路傍の石のような人生だった。では、実際の道路にある路傍の石は、磨くと玉になるのだろうか。路傍の石を拾い、磨き磨いたらどうなるのだろうか。
こうして、箱根の旧東海道に路傍の石を探しに行った。いまは、探しに行かなければ、路傍の石はない。旧東海道は、各所に残っており、三島から箱根にかけて所どころにある。この道は、更級日記の菅原孝標女が千葉、市原から京都へ帰るあづまぢの道だっただろう。江戸時代の多くの町人や参勤交代で大名行列に踏みしめられた石かもしれない。赤穂浪士が江戸入りの際に踏んだ石かもしれない。あるいは、改修工事で最近、補修用の石として撒かれたかもしれない。いずれにしても、旧東海道脇の片隅に転がっている小さな石は、何万年、何千万年、数億年も昔に生まれた岩であることは間違いない。
子供達に、「このゴツゴツした汚い石、研ぐと輝いてくると思うか」、と聞いたところ、「輝かない」、と答える。子供に、「一緒に磨こう」と誘い、磨く。この石を荒砥で研ぎ、番手の異なる耐水性サンドペーパーで研ぐ、そして、最後に研磨剤で磨ぐ。業者に頼めばやってくれるかもしれない。機械を買って研磨することもできる。しかし、手作業で磨いてこそ意味がある。3日、4日、5日、一日中磨くわけではないが、懸命に研ぐ。「ゴシ、ゴシ」、「ゴシ、ゴシ」、石ころたちは、苦しい音を出しながら、次第に輝きを持つようになった。路傍の石たちは、黒い輝き、黒みを帯びた縞模様の輝きなどをその中に持っていた。
建物の大理石や玄関の磨かれた輝いた石だけが石であり、ダイヤモンドや翡翠などの宝石だけが価値あるものではない。むしろ、路傍の石が輝くようになることを知る方が大切だ。この石、私たち人間を含め、最初から決め付けられる人生ではなく、艱難を耐えてこそ輝いてくることを教えてくれる。
いま、小中学校からアルバイトをやり、丁稚小僧として勤める子供たちはいなくなった。いろいろな事情で仕事しながら、夜高校へ、大学へ行く学生も少なくなった。平成13年3月、三島のわが母校、日大短期大学夜間部は、閉鎖された。平成22年3月には、三島北高定時制も同様となった。子供たちは、みな、アルバイトをすることもなく、むしろ、アルバイトを禁止されて学業のみを終える。アスファルト舗装の道路と同じように平坦な人生となった。
しかし、いじめや家庭内の虐待や登校拒否の形で現れている。これは、形を変えた路傍の石である。また、奨学金とは名ばかりで、返済しなければならない学費を借りて大学を卒業して、卒業後に借金の返済に苦しむことも路傍の石に他ならない。
道路に行っても、今、路傍の石を見ることはできない。しかし、海に行くと、海岸には、石が打ち寄せられていて役に立ちそうもなく転がっている。海岸の石たちは、たくさんの石に揉まれ、丸くなっていた。路傍の石は、泥まみれで、ひとつとして同じ形はなく個性があったが、海岸の石は、汚れがおちて丸みを帯び、個性がなくなっている。これも磨いてみた。硬い石だった。この石たちも輝くようになった。どこの国の、どこの路傍の石、海岸の石も磨くことにより輝くようになる。
親が貧しい、親が親としての役割を果たさない、身体的ハンディ、学校でいじめられる、学歴がない、仕事の悩み、人生には、いろいろ苦難がある。こんな苦難ほしくはないが、「辛い、悩む、悲しい」と思える年齢のときにはすでに苦難の中に入っている。避けられない宿命でもある。しかし、へこたれちゃあいけない。負けちゃあいけない。
ただ、めげそうになる時がある。何度もなんどもだ。これは、しかたがないことだ。そんな時、路傍の石や海岸へ行って、さもない石を拾って磨いてみると、輝いてくる。荒砥は、厳しく、辛いしごきとなる。しかし、荒砥は、石を磨く時には大切な第一段階だ。荒砥のような奴、嫌いだ。だけれど、自分を磨いてくれるいやなありがたい奴だ。そう言って、がんばろう。
2004.03.02(火)後藤正治記
2019.09.10(火)追記