東日本大震災 法律相談日誌3

2011(H23)年4月30日 法律相談第1日目(後半)

 Yは、津波にのみこまれ、悲惨な状況だ。A避難所、B避難所の近くは、津波の痕跡があまり見られないので、津波がどのようにきたのか、不思議な感じもしたが、Yは、違った。

 山並みを抜けて、海が見える被災地に入っていく。道路の脇にある崖地や平地と接する山を見ると、この斜面の木々に赤、青、白、茶色など多様な色の紙、プラスチック、板などがひっかかっている。この位置は、自動車の高さの6〜7倍以上もある場所である。津波によるいろいろなものが打ち上げられている。道路を走っていくと、両脇の道路上の各地に津波予想区域が設定され、標識が設置されている。10m、場所により20mの高さではないかと思うほどの位置に設置されている。このような高い位置が津波の想定高さかと驚くと共に、この位置より同じか、少し高い位置に津波の痕跡が残っていた。津波の被害は、やはり歴史を繙き、津波の高さを知ることだと思った。テレビでは放送されない状況やテレビでは伝達できない肌で感じる埃や匂いなど悲惨さが凄い。

 次に向かったD避難所には津波で家族も家も職も失った二人がいた。二人とも、何も考えられないという状況であった。法律相談以前である。放心状態、虚脱状態を減じてやることができるかもしれないと思い、地震と津波の状況や苦悩を聞いてあげるしかできなかった。

 帰りの時間となった。集合場所の食事場所をナビに設定するためにパチンコ屋に寄ったところ、T弁護士車両が止まっていた。T弁護士が「パチンコ客が大勢だ。一杯だ。」と言う。私もトイレ名目で中に入った。6列くらいのパチンコ台通路がある。パチンコ台が向かい合って並んでいるので、椅子も通路の両サイドに並んでいる。椅子に座った客数はほぼ満席である。各列を見たところ80%位が埋まっていた。避難所には、人はほとんどいないので、法律相談は、手応えを感じることができなかったが、ここには大勢の人が集まっている。法律相談は、ここでやるべきなのか。一方で、津波に困り、他方で、パチンコに興ずる。津波の大被害からまだ50日である。1回5000円〜10000円使うこの遊びに、どのような考えの下で行くのか、としばし口が尖った。私は、非難派だったが、WさんとH弁護士は、弁護派だ。「仕事もない。テレビも付かない。遊び場所やストレスの発散場所がない。悲嘆にくれる状況下、パチンコをやって時間の過ぎるのを待つしかないときがある。なんで、悪いんだ。」それもある。数人がいるといろいろ意見が出る。ありがたいことだ。

 1日目の相談が終わり、海援隊15名が自己紹介と反省会を開く目的で、中華料理店で落ち合うことになっていた。午後8時ころ着いた。自己チーム以外は、初対面である。みな自己紹介となった。それぞれ、個性派の情熱ある弁護士である。九州から来た女性弁護士は、ボス弁に黙って今日、ここへ来た。九州から羽田へ、そして、羽田からバスを乗り継いで来たという。感嘆した。我々は、自動車で、6人できた。14時間かかったが、福岡からの遠さと時間に比べると容易なものだ。そして、一人での行動は、精神的負担が我々以上に大きい。これを彼女のエネルギーと行動力で乗り越えてきたことに頭が下がった。

 テレビ局「ガイアの夜明け」のマイクやテレビカメラは苦手である。明日もあるので、長時間の打ち合わせができない。もっと、隊員たちの思いを聞きたかった。

 9時40分頃、旅館に帰着。帰ってから喉がいがらっぽい。風邪以上の原因を心配して、うがいをしっかり、手も洗う。お疲れさん会を開く。日本酒を飲み、うがい代わりとする。ここで、12時就寝。

2011.4.30(土)後藤正治 記