頭脳を研ぐ

 ナイフを研ぐように自分の頭脳を研ぐことができないだろうか。カミソリが切れるような鋭い頭脳になれないだろうか。試験勉強が激しくなるにつれこのようなことを思うようになった。

 私が日大三島商経科夜間部へ通学していた当時、歴史学の教授に軽部先生というが方いらっしゃった。この先生が「頭は使えば使う程良くなる。」と言われた。これを聞いたとき、そのようなことは他人事で「そうかなあ」と聞き流していた。

 三島北高夜間部4年生のとき担任の先生から君は上の下か、中の上だと言われ、大学に入ってからも私は優秀な学生ではなかった。経済原論を一頁から読み始めても一頁の終りころになれば早くも疲れて嫌になってきた並み以下の学生だった。

 しかし、家業の豆腐屋を脱するには勉強しかないと思い、懸命に勉強をするようになってから、能力のレベルアップができないものかを必至に考えるようになった。これは、「自分は駄目な男なのではないか、いやでも豆腐屋をやるしかないではないか」という自己の能力への懐疑に対する回答のためにも必要だった。

 そこで、いろいろ考えてみると、同じ自分でありながら、試験が近付いて来ると緊張感が高まり、勉強の集中力、記憶力、持続力が普段のときより格段の高さで存在することに気が付いた。この試験直前の能力水準が普段に存在すれば、自分は優秀になれる筈だ。低レベルの谷の部分をこの試験直前のハイレベルで埋めることができれば試験も軽く突破できる筈だと意識した訳である。そこで、実際に存在する「もう1つの自分に近付づこう」と努力し始めた。

 「もう1つの自分」は、重要だ。ある優秀な人を見習え、というものではない。怠惰な自分の中にときどき訪れる緊張感ある自分に、存在する能力を見る。この能力は、自分に1週間で何回来るのだろうか。何時間来るのだろうか。1ヶ月ではどうか。1年ではどうかである。私は、1年に10日とか、20日しか現れていなかった。優秀とまではいかないが、怠惰な自分とは違うもう一つの自分の存在を認識した。この訪れる能力が、1日増えたら、2日、1週間、1ヶ月増えたら自分の能力は何倍になるだろうか。365日とまではいかないが、少しづつ、増やしていこう。そうすれば、自分は、2倍、3倍、10倍、20倍の能力となる。

 如何にしたらかかるハイレベルの自分になれるだろうか。試験直前の緊張感を作るにはどのようにしたらよいのだろうか。試験になるとなぜ緊張感が高まるのだろうか。頭脳を研ぎ磨く研石は自分にとって何だろうか。種々考えた。

 試験は、「試験に合格しないと将来が危うくなる」といういわば「外から強迫」が接近するために自分に緊張感が増すのではないだろうか。そうだとすると「普段に自己による自己への強迫」をすれば良いではないか、と考えた。そこで、強迫の材料は何があるのだろうかを次に考えた。

 私は、私に対して「お前は豆腐屋をやりたいのか、いやなら勉強をしろ」とか「お前より成績の悪かったやつが昼間の大学へ行っているぞ、お前は悔しくないのか」など誇大に悔しい材料を探して毎日自分に言い強迫し続けた。

 このような状態は、他にもないだろうか。私たちは、馬鹿にされると非常に悔しくなる。「友人、知人、先生などに馬鹿にされる」と「なにくそ」と思う。そこで「馬鹿にしてくれるいやな奴。涙するほど悔しい奴。」は「俺を磨いてくれるありがたい奴」だ。「馬鹿にしてくれるうれしい奴」と敢えて会うようにすることが良いではないか、と考えるようになり、そのような人と会うことにした。

 また、その人の前に立つと自分が緊張してしまうような若干苦手な人がいるか、いるなら出来る限りその人に会いに行くようにする。そして、自分の緊張感をみがく磨くのである。

 失恋も勉強を奮い立たせる大きな材料である。父の倒産、父の失業、父母の死、こういうものすべてを勉強の集中力、持続力、ガンバりのバネになる。辛いこと、悲しいことは、砥石になる。

 砥石ばかりではなく、砥石を使って磨く方法を研究した。自己強迫や辛いこと、悲しいことばかりを求めてばかりいないで、研ぐスタイルを考えねばならない。これは内的思考力の向上である。

 この場合、なんでも「なぜ」を考えることだ。私は、「なぜ」を良く考えた。

 「なぜ、豆腐屋をやらなければならないのか」「なぜ、なぜを考える必要があるのか」「なぜ、自分は行動ができないのか」「なぜ、なぜ、なぜ−−−」なぜを考える対象があれば一切がっさいなぜを考え、毎日毎日なぜを考えるようにした。これをノ−トに表わし、「なぜ」と「答え」を発展させた。なぜ、や、何かひらめいたものがあった場合には、すぐノートに取り、考えた。

 このような思考は、

1) 「なぜ」の回答として「仮説」を自己に作るきっかけとなり、「仮説」が生れてゆく。

2) この「仮説」がその後の体験・思考により「仮説」が検証され、確定した「自説」として固まっていく。

3) 更に、これが基盤となって「なぜ」が更に、発展して行き、

4) 個々の関係ないかのように見えた、孤立していた知識は、互いに握る手を持つようになる。

5) 知識と知識は繋れて行き、連続する2進思考が可能となる。

6) 法律の勉強でも「なぜ」を考えた。法律の勉強の場合「なぜ」を考えなければならない。法律の勉強の方がもっと多くなぜを考えた。立法趣旨を考え、立法趣旨から条文を考えて行く。勉強の方法はどのようにしたらよいのか。効率的な勉強の方法はないのか。私の思考は、法律の勉強で磨かれた。

 更に、関連的な思考をした。本を読む時や考える時、本の頁の順序や人が言っている順序に拘束されず、自分の自然に考える順序を探し、その順序で本を読み、考える。例えば、生物の勉強の場合、生物の「種の保存」を中心目的と考え、植物のでは、種−発芽−成長−開花−結実−種の順序で考える。これをすべての学問、すべての事がらで考え、思考する。こうすることで、思考が鋭く追求力と理解力、記憶力が高まっていった。

 パラレルな思考も大切だ。1つの出来事をそのことだけで、思考すると、理解力、記憶力が弱い。類似したもう1つ、2つ、3つ、4つーー、考えられることをパラレルに思考する。パラレルな思考は、物理的には頭脳に負担が増加するように見えるが、むしろ、理解力が早く、強固になる。記憶力は、認識力に変わり、記憶が高まっていく。面白いものである。

 私は、このようなことを考え、また、その他、いろいろ工夫しながら、自己の頭脳を研いだ。磨いだ結果としての私のレベルは、大したことはないが、頭脳は研げるし、磨くことができる。

1988.01.11(月)後藤正治 記

2019.07.18(木)追記