第87回判例研究会

月1回、外部弁護士を含め判例研究会を行っている。2019/6/24で第87回となる。判例時報2396~2399号から4判例がレポートされた。内1件は、兄妹間の争いであり、老人ホームに入居した両親と妹が面会をするのを兄が妨害することについて、被保全権利を「両親に面会する権利」として、妹が兄と老人ホームに対し妨害禁止仮処分を申立て、これが認められた事例(横浜地決H30.7.20)であった。ほかにも、認知症患者が行った低廉な任意売却について暴利行為による契約無効を主張して認められた事例(東京高判H30.3.15)など法的構成が参考となった。これらの判例につき、メンバー間で活発な意見交換がなされた。

老人の再婚

 医学が発達して、ポリオや天然痘は根治できた。ガンなど治せなかった病気も治療できるようになった。エイズのような病気も出てきたが、その治療研究はめざましいものがある。アフリカでは、食糧危機で多くの子どもたちが死亡している国もあるが、日本では幸いに豊かだ。自給率30パーセントとはいっても食料品の輸入量は膨大で食品の品数はもとより品質も高い物が食卓にあがる。栄養も豊富になった。上下水道も完備し、生活環境も清潔である。こうして日本の平均寿命は、次第に高くなり、今は、男性81.25歳、女性87.32歳(2018年度)が平均寿命となった。高齢化社会が叫ばれて久しいが、まさに、日本は、高齢化の一途をたどっている。人が高齢化すると、次第にぼけるとか、仕事ができなくなって収入をどうするか、とかいろいろな課題が出てくる。

 「おまえ100まで、わしゃ99まで」というくらい夫婦が二人とも長寿を長らえれば、幸せだ。子育てを終わり、夫婦で旅行や社交ダンスを楽しむほほえましい夫婦をみるが、老後の充実した生活は夫婦健在により生まれる。しかし、夫婦が二人とも長寿を全うできるのは、少なくなる。男性の寿命と女性の寿命に差があるし、病気や事故による不慮の死は避けられないからである。そして、高齢化社会が進行してくると、ますます、一方が生き残る率が高くなっていく。

 50歳を越えて1人となった場合、平均寿命81.25歳から考えるとまだ31年もある。31年間も一人で生活するとなると、暗澹たる気持ちになることは、理解できる。60歳でも21年間はあり、自分は平均寿命より長くいきるだろうと考えるのが、人の常のようだから30年以上も一人で暮らすのは、いやだなと考える。そこで、再婚と相成るわけだが、子どもたちの反対も多くなる。父親の面倒を見るのもいやだが、後妻が入り、財産が後妻に流れるのもいやだと言うわけだ。これでは、残された父親はたまらない。まあ、さっさと再婚するさ、と思う。ただ、婚姻届を出さない通い婚と言うのも最近、多くなっているようだ。男性女性ともに以前からの生活があり、互いに、これを壊すこともできない。かといって終生一人というのも寂しいと言うわけで互いに親族友人などに公開した上で交際するわけだ。こういう間柄もよいことだ。

 ところで、70歳を過ぎ、また、80歳近くになって一人身となり、再婚する人もいる。理由は、同じようなものだ。70歳でも婚姻できる男性は、なかなかいないだろう。ゴルフでたまたまご一緒した方が80才近い方で、昨年結婚されたばかりだと言う。「来年あたりは、おめでたの話がありますね」と、こちらも冗談交じりに話したら、「連れの方は55才で、子どもは無理だな」と、明るく、本気な返事が返ってきた。このように結婚できる幸福者は、地位も財産もある方となろう。

 さて、このような場合、婚姻届をして僅か1年、2年で当の男性が死亡する事態に至ることも多くなる。民法では、妻はいつも相続人であり、子どもがいる場合には子どもと妻で半分の相続分があり、子どもがいない場合には、妻が4分の3、兄弟姉妹が4分の1となる。婚姻届け出後翌日で死亡してしまっても財産は、妻に半分いくことになる。

 このような結果を考えて、遺言を作って結婚するご老人もいる。結婚に先立ち子どもたちに対し、財産を相続させる旨の遺言を作るわけである。もっとも、結婚すれば、後妻に遺留分があるから遺言ですべては決まらない。いずれにしても、考える能力のある人は、遺言を作ったり、そのほか生前贈与を考えたりして、財産のバランスある分配を考えるが、多くの人の場合、遺言を作ったりしないで自分の感情の思うまま結婚に至る場合が多い。一人でいるのはいやだ、結婚するんだとばかりに結婚していくわけである。だいたい、賢明な人の場合、紛争など縁が少なくなるが、多くは法律など知らない人が多いのだから、紛争も出てくると言うものだ。

 私が受任したケースは、35年連れ添った妻を亡くした68才の男性が2年後70才で再婚し、婚姻届をしないと息子たちに約束したが、婚姻届をして2年後に死亡した事例であった。当然、後妻に相続権は2分の1あることとなる。息子は、怒った。母親は、65歳でなくなったが、父の人生の多くを支えてきた。自分の母親の貢献、寄与はどうなるのか。夫婦が健在の場合、ともに買った財産は夫婦共有である。離婚の場合には財産分与があり、夫が先に死亡した場合には、その妻には2分の1の相続権がある。これらは、ともに作ってきた財産の清算をすることにあるが、母親が先に死亡したとたんに全くの無価値になってしまうのか。後妻に、これらの権利が全て行ってしまうのか、である。

 私は、もっともだと思う。もとより、後妻の方に財産をやらなくて良いというのではない。何が公平かの問題であり、先妻が貢献して築き上げた財産を後妻に相続させて良いか、どのくらいの額が後妻に相続として承継させて行くべきかの問題である。

 この件は、法廷で争われた。私は、次のような主張を行った。夫名義の財産は、確かに夫名義であるが、亡くなった妻の功績が多く、無くなった妻の相続分が含まれている。この部分は、2分の1であり、後妻の相続分の対象の相続財産から除くべきである。先妻の寄与分は、先妻が死亡したことから直ちに無くなるべきではない。このように先妻の財産形成寄与部分を夫の相続財産から除いても後妻の期待を裏切らない。そのほか、種々主張した。本件では、最高裁に上告したが、私の主張は、採用されなかった。しかし、高齢化社会が進行していく中で、80才の男性が長く連れ添った奥さんに先立たれ、再婚し、1年くらいで死亡した場合、夫の全財産を対象に文字どおり2分の1の相続権が認められるべきとは、思えない。高齢化社会になって、法改正も考慮しなければならない条文の一つであろうと思う。

 亡くなった当のご本人は、なんとこの紛争を眺めているだろうか。我々は、公平な配分が相当と思い、この条文の行方を見つめたい。

1995.2.18(土)後藤正治 記

2020.2.28(金)追記

路傍の石

 繰り返し雨に打たれ、風に吹かれて、道路に隠れていた石は、顔を出す。道路に出っ張った石は、やがて行きかう車の車輪に踏みつけられ、弾き飛ばされ、人の足で蹴られて、道路の脇に追いやられる。路傍の石は、道路にとって邪魔者で、道の傍らに忘れられていく。

 子供たちに「路傍の石」を聞くと、この意味を知らない。今、私たちも、路傍の石を見ることがない。道は、アスファルトやコンクリートに舗装されて、雨が降っても、自動車が走っても、路傍の石を作り出すことはなく、どこまでも平坦な道が続く。

 高校生も終わりころになり、「路傍の石」山本有三に出会った。吾一少年は、小学校を卒業してから、丁稚奉公に入り、いじめられ厳しく辛い毎日を送る。ここには、路傍の石のように踏みつけられ、蹴飛ばされて役立たずとけなされ、社会から忘れられたような吾一がいた。

 路傍の石とは何だ、路傍の石で何を言いたいのだ、吾一が苦労しても俺と変わりがない、そんな話を書いてどうなると言うんだ、と本を読みながら反発と疑問が出てしかたがなかった。しかし、「艱難汝を玉にす。人間は、人生という砥石で、ゴシゴシこすられなくちゃ、光るようにはならないんだ。」と山本有三は答えた。この言葉、最初は、私に漠然としたものだった。艱難とは何か、玉にすとは何だ。人間が光る、とはなんだ。人間を砥石で、ゴシゴシこすれば、光るのか。一言一言噛み砕くことによって、苦労は苦労だけで終わるのではなく、どんな人生でも苦労で光るようになることを語っていると理屈だけは理解できるようになってきた。

 我が家は、私が小学生1年生の頃、豆腐屋を開業した。当時、足踏み式の石臼で大豆を摺り下ろし、釜で具を煮る。こんな頃から、豆腐作りを手伝い、乳母車を引いて、豆腐を売っていた。学校へ行けば、「豆腐屋!プッ、プー」とラッパを吹いた格好をして、同級生からからかわれ、いじめられた。この仕事が中学校を卒業してから本業となった。私は、主観的には、路傍の石のような人間となった。「艱難汝を玉にす」の言葉に出会って、この言葉が本当かどうかは分からないまでも、豆腐を作って売る人生に、ほんの少し納得が持てるようになった。

 それから3年ほどして、日大通信教育スクーリングで、司法試験を決めた。漠然とした人生に一条の光が差し込み、15年かけて弁護士になった。私の青春時代は、まさに路傍の石のような人生だった。では、実際の道路にある路傍の石は、磨くと玉になるのだろうか。路傍の石を拾い、磨き磨いたらどうなるのだろうか。

 こうして、箱根の旧東海道に路傍の石を探しに行った。いまは、探しに行かなければ、路傍の石はない。旧東海道は、各所に残っており、三島から箱根にかけて所どころにある。この道は、更級日記の菅原孝標女が千葉、市原から京都へ帰るあづまぢの道だっただろう。江戸時代の多くの町人や参勤交代で大名行列に踏みしめられた石かもしれない。赤穂浪士が江戸入りの際に踏んだ石かもしれない。あるいは、改修工事で最近、補修用の石として撒かれたかもしれない。いずれにしても、旧東海道脇の片隅に転がっている小さな石は、何万年、何千万年、数億年も昔に生まれた岩であることは間違いない。

 子供達に、「このゴツゴツした汚い石、研ぐと輝いてくると思うか」、と聞いたところ、「輝かない」、と答える。子供に、「一緒に磨こう」と誘い、磨く。この石を荒砥で研ぎ、番手の異なる耐水性サンドペーパーで研ぐ、そして、最後に研磨剤で磨ぐ。業者に頼めばやってくれるかもしれない。機械を買って研磨することもできる。しかし、手作業で磨いてこそ意味がある。3日、4日、5日、一日中磨くわけではないが、懸命に研ぐ。「ゴシ、ゴシ」、「ゴシ、ゴシ」、石ころたちは、苦しい音を出しながら、次第に輝きを持つようになった。路傍の石たちは、黒い輝き、黒みを帯びた縞模様の輝きなどをその中に持っていた。

 建物の大理石や玄関の磨かれた輝いた石だけが石であり、ダイヤモンドや翡翠などの宝石だけが価値あるものではない。むしろ、路傍の石が輝くようになることを知る方が大切だ。この石、私たち人間を含め、最初から決め付けられる人生ではなく、艱難を耐えてこそ輝いてくることを教えてくれる。

 いま、小中学校からアルバイトをやり、丁稚小僧として勤める子供たちはいなくなった。いろいろな事情で仕事しながら、夜高校へ、大学へ行く学生も少なくなった。平成13年3月、三島のわが母校、日大短期大学夜間部は、閉鎖された。平成22年3月には、三島北高定時制も同様となった。子供たちは、みな、アルバイトをすることもなく、むしろ、アルバイトを禁止されて学業のみを終える。アスファルト舗装の道路と同じように平坦な人生となった。

 しかし、いじめや家庭内の虐待や登校拒否の形で現れている。これは、形を変えた路傍の石である。また、奨学金とは名ばかりで、返済しなければならない学費を借りて大学を卒業して、卒業後に借金の返済に苦しむことも路傍の石に他ならない。

 道路に行っても、今、路傍の石を見ることはできない。しかし、海に行くと、海岸には、石が打ち寄せられていて役に立ちそうもなく転がっている。海岸の石たちは、たくさんの石に揉まれ、丸くなっていた。路傍の石は、泥まみれで、ひとつとして同じ形はなく個性があったが、海岸の石は、汚れがおちて丸みを帯び、個性がなくなっている。これも磨いてみた。硬い石だった。この石たちも輝くようになった。どこの国の、どこの路傍の石、海岸の石も磨くことにより輝くようになる。

 親が貧しい、親が親としての役割を果たさない、身体的ハンディ、学校でいじめられる、学歴がない、仕事の悩み、人生には、いろいろ苦難がある。こんな苦難ほしくはないが、「辛い、悩む、悲しい」と思える年齢のときにはすでに苦難の中に入っている。避けられない宿命でもある。しかし、へこたれちゃあいけない。負けちゃあいけない。

 ただ、めげそうになる時がある。何度もなんどもだ。これは、しかたがないことだ。そんな時、路傍の石や海岸へ行って、さもない石を拾って磨いてみると、輝いてくる。荒砥は、厳しく、辛いしごきとなる。しかし、荒砥は、石を磨く時には大切な第一段階だ。荒砥のような奴、嫌いだ。だけれど、自分を磨いてくれるいやなありがたい奴だ。そう言って、がんばろう。

2004.03.02(火)後藤正治記

2019.09.10(火)追記

ハム局

 中学生の頃、「CQ、CQ、CQ。こちらJA1・・・」「ジュリエット、アルファ、ワン、・・・」などと交信しているのを見てハムにあこがれた。

 この夢に一歩近づいたのは昭和55年10月司法試験に合格した直後だった。もう1ケ月半すれば司法研修所に入るという頃、三島信用金庫に勤務しているUさんからこんな話があった。「ハムの試験というのは問題を見ると電波や電気抵抗など理解して答えを出そうとするとなにやら難しそうですけれど、コツがあるので、やさしいですよ。小学校の2年生とか3年生が合格したという話を聞くと思いますが、要するにコツ。試験問題は繰り返し出ていますから問題を全部覚えればいいんですよ。」

 こう聞いて第4級アマチュア無線技師試験を受ける気になり家内とともに申し込みをした。私は、まじめにやろうとして法規集、電波の参考書を買った。しかし、電波の勉強をまじめにやろうとすると、どうもやる気がしなくなる。試験は3月初旬の明日に迫ってきた。私は、「面倒だ。やめた」と思い、これを宣言したところ、「そんなのおかしい」と言われ、やむなく一夜漬けで問題集1冊を記憶することにした。問題と回答で100問くらいあった。こうして、ぐらぐらした時期はあったが、夫婦とも合格となった。私は1~2問間違えた。家内はじっくり勉強していたようで「私は、全部できたよ」という。ちょっと、悔しいが、まあ、一夜漬けなら仕方がない。

 開局番号は、家内が「JJ2AXX」私が「JJ2AXY」となった。144メガバンド、通称2m(ツウメーターという)帯の機械を備えたのは弁護士になってからだ。自宅に据え置き型、車の中に携帯型を入れた。こうして交信を始めたが、どうも思った夢の実現になっていない。交信はまず、メインチャンネルで互いにコンタクトをとり、空いているサブ・チャンネルに移って個々の交信となる。知らない人との交信は互いに求めている話題が合致して、他のチャンネルを探すことになるのだが、私は、メインチャンネルで飛びかう話に加わっていけない。

 そこで家内との交信に落ちついてしまった。午後5時半から6時半ころに交信することにして、自宅の台所に設置した機械に電気を入れておいてもらう。「CQ CQ こちらJJ2AXY。今から帰る。夕食のおかず何。え、里芋の煮付け?じゃあ、外でたべるかな。」こんな会話である。Uさん曰く「先生、別に聞こうと思って聞いた訳じゃあないんですよ。奥さんとの交信たまたま聞いたんだけど、あれじゃ奥さんがかわいそうだよ。もっと気の効いた話題ないかあ。あれじゃ、離婚間近じゃない。」こうして家内との交信も検閲にあってとぎれがちとなった。そんなころ、車上窃盗に遭い、携帯用無線機を持って行かれてしまった。これで、夫婦での問題の多い交信は、途絶えた。盗まれたことで、離婚の危機が避けられたのかも知れない。

 更に、夢を実現すべく21メガバンド帯に行った。これは北海道から沖縄で広いエリアで電波をとることができた。しかし、これでも何か空しかった。なぜだろう。中学生の頃は、北海道や沖縄は地の果てである。それこそ、そんなところで住む人と話ができるなんて、夢のようだ。ところが、今は違う。電話も、テレビもある時代だ。弁護士となり、そこへ行こうと思えば、行ける。何か、私の心はさめていた。

 こうして、海外へ電波の方向を受けた。今度は英語の世界である。入る入る、どうもアメリカのようだ。今度は、シンガポールのようだ。しかし、応答する能力がない。問題は、英語である。こうして、帯に短し襷に長し、昭和62年頃から中断して、「JJ2AXX」と「JJ2AXY」の開設局も更新切れで閉鎖となってしまった。

 1995年5月、阪神大震災後のボランティア法律相談で神戸に行った際、50ccのオートバイが移動には有効だ、自家発電機の用意もした方が良い、そして、アマチュア無線をやっておられる方々の活躍の話を聞いた。静岡県では、駿河湾沖を震源とする東海大地震の話が出て久しい。また、パソコンとの接続の話も可能で、衛星通信の世界もあるようだ。こうして、再びアマチュア無線局を開設することを検討したが、未だに着手はない。

1997.2.24(月)後藤正治 記

 阪神大震災から24年を経過したが、東海大地震は、幸い未だに襲来がない。アドバイスを受け備えとして購入した50ccのオートバイと自家発電機は、朽ちてしまった。しかし、日本を取り巻く火山帯は活動期にあると言われるほど、多くの地震が日本の各地に発生している。代表的なものだけでも、2003年は十勝沖地震、2003年は新潟県中越地震、2011年は東日本大震災、2015年は小笠原諸島西方沖地震、2016年は熊本地震、2018年北海道胆振東部地震であるが、このほか全国各地に地震が発生している状況である。東海大地震だけは、不気味に静寂を続ける。

 ハム局を開設した昭和58年頃に比べると、携帯電話の発達は、著しい。ビジネスのための一部の者しか使用できない高価なものであったが、個人ユーザーの時代となって、今は小学生までが使用することとなった。携帯電話は、生活に不可欠な機器となったが、大地震による通信施設の破壊や使用者のアクセスが集中すると、通信網の途絶もありうる。これを考えると、ハム局の開局が必要なのかもしれない。

2019.7.23(火)追記

シルクロードの旅(トルファンの市場にて)

 「トイレの状況はわるいよ。大のほうは板をまたぎ、下では豚が待っている。」と専ら本の影響ではあるが、脅かされて、シルクロ−ドの要衝トルファンへ向かった。ここはウルムチから南東へ約200キロ、次の訪問地敦煌から西へ600キロ、天山南路にあるこの地には、玄奨三蔵が講義をしてインドの帰途16年後に再び寄ったときには既に滅びていた高昌古城、西遊記の舞台にもなった赤々と燃えるような岩肌の火炎山、漢代に車師前王国の国都として栄えた交河古城などの遺跡があり、トルファンは、正に、中国西域の古都である。

 ツアーの旅に単独行動ができる時間はあまりないが、お決りのコ−スとは違う自分なりの旅を楽しむのは、自由時間を置いてほかにはない。ここでのタクシ−は、ロバに2輪の荷車を付けたものしかなく運転手は13才位の少年である。お客のために日本語も勉強をしているしたたかな少年との付き合いは、値段交渉から始まる。「バザ−ル、10元、安いよ」と声を掛けてきた。中国人の1か月の収入は通常100元(日本円で4000円)からすると法外に高い金額を吹っかけてきている。私は、笑いながら「プシ−、イ−シチエン、イ−ユエン」(だめだ、1時間では1元だ)と答える。結局、5元で妥結した。町は、ロバ車が行き交い、ロバ車が溢れていた。

 近代的な鉄筋コンクリートの建物がある1方で、日本の朝市に似たバザ−ル(市場)が開かれている。店は、200店とも300店とも思える数の店があり、そこには、ロバ車で荷物を運び、家族してロバ車に乗って皆買い物にやって来る。ぶどうや干しぶどう売り、ハミウリ売り、林檎売り、ナイフ売り、キャベツ売り、トウモロコシ売り、肉屋、靴屋、帽子屋、食堂、売る人と買う人とがごった返していた。私は、カメラを持ちバザ−ルに入ったが、途中でフィルムが終ってしまったので、これを交換しようとカメラの裏蓋を開けてフィルムの交換を始めたところ、たちまち20人位の子供たちの人だかりで私は、埋もれてしまった。我々日本の生活状況は、かくも変化したかと、一瞬、戦後のアメリカ兵に群がる私の少年のころを思い浮べた。

 バザ−ルで「マネ−チェンジ、マネ−チェンジ」と秘かにお金の交換を求めてくる。私が、経験のためその交換に応じようとしたところ、ロバタクシ−の少年が「俺と交換しよう」と言ってきた。交換内容は、「兌換紙幣100元に対し人民紙幣100元、タクシ−代はいらないよ」と言うものだった。私は、「プシ−、イ−パイ、パシ−、ユエン」と人民紙幣180元でなら交換しても良いと、大きく出た。添乗員が交換は止めたほうが良いでしょう、と言っていたが、私が勉強のため交換したい思ったからである。

 私の態度を見て、少年は、それでは120元で交換すると答えてきた。私は、また「プシ−、プシ−」だめだ、だめだ、と言ったところ、130元になった。バザ−ルの中で少年と肩を組み、歩きながら楽しいやり合いは続く。私は、「ペイチン、イ−パイ、パ−シ、ユエン」北京では180元だと言ったところ、少年は、負けずに「ペイチン、ペイチン、トルファン、トルファン」とやり返してきた。これは、要するに北京には北京の相場があるが、トルファンにもトルファンの相場があると言う意味だ。私は、これには、大笑いをしてしまった。結局、130元から135元へと上がってゆき、140元で交換交渉はまとまった。別れ際に、本当の交換率は幾らかと聞いたところ、150元であり、自分が5元、「ガ−ガ」兄が5元を取ると言っていた。ここにも場所を取り仕切る兄貴分がいるのだろうと思えた。

 ホテルに到着して料金を払おうと約束の5元を出したところ、当初の料金の10元を言ってきた。私は、約束は5元だと頑張る。少年は、ゆずらない。なかなかしたたかである。暫くのやりとりの後、私の5元が通った。少年が納得して5元を受け取ったのを確認してから、お礼の5元を渡した。彼は、トルファンの市場を案内し、写真のモデルになり、私を写す写真屋さんにもなってくれたからだ。その少年の顔が笑みで溢れた。

 1987年10月に見たトルファンの情景は、砂漠に現われた蜃気楼のごとく夢か幻のように思える。仕事の意欲を作るために、仕事を忘れて旅をする。素晴らしいシルクロードへ、私は、また、行ってみたい。

1988年2月18日(木)後藤正治 記