下半身不随

 私と同年、昭和19年生まれの鈴木葉子さん(仮名)が、交通事故に遭遇したのは、平成14年1月だった。彼女は、最初の訪問介護を終えて次のお宅で頼まれていた食事材料などの買い物をして、午前8時30分、50ccの原動機付き自転車で、キープレフトを守り、そのお宅へ向かう途中だった。

 普通乗用自動車がセンターラインを超えて、対向車線に進入してきた。彼女は、全身打撲、脊髄損傷、右足複雑骨折、肋骨骨折、意識不明、自己呼吸不全、全治10ヶ月の診断であった。気が付いたのは、2日後の病院の集中治療室である。幸い命は助かったが、10ヶ月経っても身体は、戻ることなく下半身不随となってしまった。

 下半身不随の方を外部からだけ見ると、ただ、車椅子だけの生活であるかのように見え、その大変さを感じることが少ない。しかし、脊髄損傷により下半身の神経がすべて麻痺してしまい、両足が動かないばかりか、筋肉の硬直、しびれ、こわばり、むくみ、筋の硬直があると、その状態は筆舌に尽きがたい。

 両足が足のつま先にかけて、付け根から両足が内側にめり込んでいく。両膝がくっついた状態になり、更に、内側に入り込む。これを内転と言う。この状態だと、着替えが困難となるし、トイレの用を足すことができない。内転を防ぐには、下半身をマッサージして、筋肉と筋の硬直をほぐすことが必要となる。このマッサージは、2〜3時間必要である。彼女のような下半身不随の身体は、その日にマッサージをして硬直がほぐれても、次の日になると、硬直してしまっている。だから、朝、温かい湯に入り、マッサージは、毎日、必要となる。

 下半身の硬直とむくみは、次第に強くなっていく。硬直は、事故後、3ヶ月経過したころから始まった。一晩寝て、朝起きると、両足が交差してしまっている。それは、右足が左足の位置を越え、左足が右足を位置を越えているのである。この交差を防ぐために、睡眠に付く前に座布団を二つに折って、股に挟んで寝る。しかし、座布団は、ほとんど、毎日、寝ている間にずれてしまい、両足が交差してしまう。朝起きると、足が綾のようになっているので、両手で身体を起こし、ベッドの上で綾になっている両足をこじ開けて、座布団を挟み込む。これが朝起きて、まず、やらなければならないことになる。昼間の硬直の進み具合は、同じなので車椅子に座りながらも、股にスポンジを芯にしたものを挟むようにする。内転が始まり、しばらくの期間、両膝の部分の床ずれに苦労したが、座布団を挟むことで、改善した。この両足の内側への硬直を解くには、足の筋を切断すれば、解放される。しかし、反対に、足がだらりとしてしまい、その足の支えをどうするかが、課題になってしまう。また、筋の切断は、足に対する一切のリハビリを捨ててしまうことになるので、筋の切断に踏み切れないジレンマに陥る。

 床ずれは、1晩でできる。最初は、赤くなる。神経が遮断されているので、自分では分からない。防止法は、電動ベッドがある。1時間ごと、30分ごとに向きを変えるのであるが、これでは、寝ることは、できない。床ずれは、膝だけではなく、腰と踵にできやすい。膝の部分は、座布団で、対応するが、腰の床ずれは、足が動かないので、寝返りをうてないため生じる。元気な頃、当たり前のことと思っていた、寝返りや普段の手足の動作が、これほど、重要なことだと思わなかった。

 寝返りを打つにも、身体全体の寝返りはできない。右から左の方へ身体の向きを変えるには、寝たまま、右手で、左側にあるベッドの手すりを捕まえる。右手で上半身を引きよせると上半身が左側方向に浮くので、浮いたところへ、すかさず、用意してあった座布団をあてがう。これで、若干、身体の位置が変わるが、これが彼女の寝返りで、床ずれの箇所を変えることができる。2時間半位すると、床ずれの痛さがぼんやりと伝わってくる。そうすると、今度は逆の方向へ同じような寝返りを打つ。夜、8時間睡眠をとると言っても、このように、最低、3回は、寝返りをしなければならないので、熟睡できない。時には、熟睡する。この時間は、3時間、4時間となるが、寝返りをしないため床ずれの症状が悪化して、苦しむ。だから、熟睡が怖い。

 踵の床ずれだが、両足の感覚は、左右が微妙に異なる。左足は、触感、温感、痛感などが全くない。右足は、触感、温感、痛感がほんの少し感じる。床ずれに伴う痛みは、右足に感じる。そこで、右足に来る痛みで、左足も同じ状態ではないか、と思い、一緒に位置を変える。このように気を付けているが、右足に僅かに感じる感覚を頼るほかないので、対応は十分ではないから踵に、床ずれが生まれてしまう。

 両足は、本人の意志に関係なく、微妙に震える。その痙攣で、ベッドから、右側へ右足だけが落ちていたり、左側へ左足だけが落ちている時がある。右足の感覚も鈍いので、右足が落ちていればすぐ分かるというものではない。「今日は、身体が疲れる。」と、思い、「変だな」と、感じていると、足がベッドから落ちていることを知る。ベッドの手すりは、頭側の上半分だけあり、下半分には手すりがない。手すりが全部にあるといいが、他方で、ベッドから車椅子に移るときに、その都度、手すりを外さなければならない。このためすべてのベッドが下半分は手すりがない。

 下半身が麻痺していて、痙攣をするので、昼間も、寝るまでの間、防御用の靴を履く。この靴を履かないと、足に何かぶつかり、打撲や出血をしても分からない。入浴した時に、足の傷の悪化しているのに気が付く。腰の床ずれは、失禁した時、トイレで職員さんが見つけてくれて、判るという状態である。

 排便も大変である。下半身不随は、下半身の全神経がだめになっていることである。排便は、健常者の場合、排便を催すことから始まり、肛門の筋肉もしっかりしているから失禁はない。しかし、彼女の場合、この排便の意識がほとんどない。排便の催しも、「何かお腹が、普通と違うな。痛みのようなものを少し感じるな、足がいつもより痙攣するな、それが、排便なのか、お腹が痛いのか、分からないな。」という感覚である。肛門の閉まりを全くコントロールができないので、排便の段階になると、排便の事実だけが進む。悲しいことに、排便してしまったイヤな感触も分からない。臭いが漂ってきて、「ああ、してしまったんだな」、と思う。この時の、悲しみ、健康なときの自由だったときを、思い出すと、なんと表現していいか、涙がこみ上げてくる。

 だから、時間を考え、予め行くようにする。しかし、決して、時間だけで対応できるわけではないので、失敗は、未だに、避けられない。汚物室で、汚れ物を洗わなければならない情けなさ、恥ずかしさは、何と言い表したら良いか、わからない。

 排便は、始まってからでは遅いので、予め行うことにする。しかし、無理に排便させるので、排便を促す必要がある。座薬を使用して、5分待つ。自然に降りてくる場合もあるが、降りてくる場合が少ないので、ゴムの手袋を右手にはめて、排便の用意をする。左手は、手すりに掴まって、ゴムの手袋をした右手の指をお尻に挿入して、身体を「く」の字にして排便を促す。これを、摘便という。便は、当初は、硬くなっているのが、普通だから排便には苦労する。全部が排便できるまで、済ませないと、その後に、自然排便があると大変なので、軟らかい便がでるまで摘便を行う。時間は、早いときで40分、長いと1時間半以上、トイレにいる状態になる。真夏には、汗だくでトイレをして、終わる頃には足もむくみ、疲れ切ってしまう。自宅に戻るようになると、彼女が一つを占拠してしまうので、家族用の普通の便所と障害者用の便所の2つ必要になる。

 小水は、排便と異なり、お腹に伝わってくるものもない。全く催す意識がない。だから、膀胱の許容量を超えると、勝手に出てきてしまう。定期的に、時間感覚で、行くようにする。この場合、生理的には、排尿の段階に来ていないので、自力で排尿できない。カテーテルを自分で挿入する。神経がないから、痛みは感じないが、うまくいかないときには、尿道に傷を付けて出血する。小水の時間は、カテーテルを使うので、掴まる手すりなどの消毒、両手の消毒、器具の消毒、これも使用前と使用後の消毒をするので、20分くらいかかる。リハビリテーションセンターでは、尿道へ接続したままの状態でお小水を出していたが、同時に、ここでカテーテルの使用法を練習を行ってきた。カテーテルの使用は、平成15年5月に、リハビリテーションセンターに来てからである。お小水の回数を減らすために、水分やお茶をとるのを減らすことも考えられるが、水分をしっかりとらないと、便が硬くなって、困ることになり、尿道が汚れる等、いろいろ問題が起きる。だから、水分は多めにとらなければならない。小水の回数は、毎日5回をリズムにする。

 用足しの場所であるが、車椅子が入る大きなトイレでないと、行うことはできない。病院内では、設備があるので、自分でやることができる。しかし、マッサージを受けに行く、裁判所へ行く等の時には、大きなトイレがあるかどうか、なければ、どこにあるか、時間の余裕はあるか、対応できるか、等、考えなければなたない。街の障害者用トイレの90%は、少しでも立てる人を前提にしている。手すりがあって、それが動かないので、車椅子から乗り移れない。鈴木さんのような下半身不随の方は使用できない。市役所、裁判所、官公庁、沼津駅には、南口の駅構内に大きなトイレが作られている。JRの駅構内の場合、電車利用者でない者も利用して下さい、とのことであるが、外から入ることは躊躇してしまうだろう。

  このように、外へ行くときには、トイレへ行く道のり、階段、車の置き場所までも考える。だから、トイレだけを考えても、同窓会や旅行など通常の楽しみがすべてできなくなっている。彼女は、排便など、このように強いられる毎日、話さなければ分かってもらえないこと、話すこと自体、すべてが悔しい、悲しい、もどかしい、いらだちを感じる。

 そのほか、いろいろなことに支障が生じる。朝起きて、ベッドから車椅子へ移るが、両足が動かないので、容易ではない。車椅子に乗ると、寝るまで、ベッドには移らない。できれば時々、ベッドに横たわり身体を休ませたいが、乗り降りが大変なので、車椅子に乗っている。車椅子に乗ってばかりいると、血流が悪くなり、足に浮腫、骨盤の歪みが生じる。

 3回の食事は、自分で取るが、足が勝手に跳ね上がったりするので、熱いものがトレーに乗っているときには気を付けなければならない。掃除、洗濯は、車椅子を使ってできる範囲で行うが、限度がある。

 家での自立生活を考えると、料理を作ることでも、材料を買う、洗う、包丁で切る、煮る、ゆでる、焼く。料理の盛り付け、料理を出す、ご飯をよそる、食後の片付け、食器洗いなどが続く。何気なくやってきたことも今は不可能となった。雑談をしながら、料理を家族に出すこともできない。洗濯も、洗濯機をどうするか、洗うこと、干すこと、乾燥機、片付けることも容易ではなく、タンスをどうするか、すべてが大変なことがらとなった。

 お風呂に入るのは、リハビリ・センターでは、一人で入いる。車椅子の腰掛けと同じ高さの脱衣場があるので、そこへ両手で身体を移動して、裸になる。脱衣場に続いて洗い場があり、浴槽が続く。浴槽の上部が脱衣場の面と同じ高さになっている。彼女は、洗い場にあるマットに乗り、マットを滑らせながらマットと一緒に浴槽に滑り込むようにして入る。マットは、お風呂の中で外して脱衣場に戻す。しかし、風呂場で気を失ってしまったことがあるので、この4ヶ月間はシャワーだけとなった。自宅に帰るときには、対応できるお風呂に改造することが不可欠となる。身体を洗う、頭を洗うのを洗い場で行うという健常時のころは、夢のような話である。

 元気なとき、階段は、簡単に上り下りできたが、今、階段1段分の高さは壁に変わった。10cmの家の中の段差も、大変な高さだ。自動車の乗り入れは、人の手を借りる他はない。今まで何気なく過ごしていたことが、大きな障害になった。今は家族に抱えられて異動するので、家族の休日を主に移動日にする。家族も腰痛が出て来る心配がある。

 私は、鈴木さんの代理人となって、刑事事件と民事事件の代理人となった。加害者に責任能力がない、との理由で、不起訴処分になった。また、保険会社からは加害者に責任能力がない以上、民事上の責任もない、と、損害賠償に関し支払いを拒まれた。下半身不随になっただけでも辛く悲しいのに、加害者は放任され、保険会社から賠償責任まで否定され、3重の苦しみに合うことになった。

 まず、不起訴処分は不当であり、起訴相当であるとの検察審査会への不服申立を行った。検察審査会では、不服申立が認容されたが、検察官に戻された本件は、再び不起訴処分となった。現行法では、再度の不服申立ができ、ここで、起訴相当と議決されると指定弁護士により公訴を提起されるが、当時はなかった。こうして、加害者は、刑事不処分となった。

 民事手続では、平成15年7月に受任して、平成19年1月全面勝訴判決を得たが、受任してから4年間、事故日から5年間の歳月を要した。このため鈴木さんは、身体の苦しみ以外に、法の形式的主張から苦しめられた。

 この記述は、証人尋問のため数日間をかけて聞き取った内容の半分である。私は、この記述の公開のお許しを鈴木さんから得ている。鈴木さんは、半身不随の状態というものがどのようなものかを知って欲しい。そして、民事上、刑事上の問題を知って欲しいと願っている。

2009.1.7(水)後藤正治 記

みぞれの中のプレー

2011.2.10 曇り

 明日 2.11は、「雨、午後から雪になるだろう。」との予報だった。昨年12月から日本海側の各地は、大雪に見舞われ、太平洋岸は、晴天が続いていた。それだけに、太平洋岸は、珍しい天候不順であり、雨となる。沼津ゴルフクラブ同好会、愛伊駿会のゴルフは、明日である。

 大泉製隆さんは、89才、当会の最長老である。いつも、ゴルフの当日は、大泉さんが自ら自動車を運転して、自宅から88才の鈴木菊三郎さんを迎えに行き、それから、鈴木さんと同年の小野金弥さんの自宅へ行き、そして、沼津ゴルフへ来るということを聞いていた。私たちが沼津ゴルフへの行き帰りの送り迎えをする時期だと思った。

 私は、大泉さんへ電話を架けて、「迎えに伺います。」と声をかけた。

 大泉さんは、くるぶしを痛められていた。

「無理してプレーをすると、その次の機会を失うので、大事をとって欠席します。」とのことだった。

小野さんの欠席は、既に聞いていた。

「鈴木さんは、どうされますか。」と大泉さんに聞いたところ、

「欠席の話は、聞いていない。」とのことだった。

私は、鈴木さんに電話を架けた。

「出席されるのであれば、迎えに伺いますが、どうされますか。」

「行きます。」7:30分に自宅に迎えに伺うことになった。

2011.2.11 7:00 私は、寝床から出た。「今日は、どうだろうか。」窓の外を見ると、みぞれ模様である。

私は、約束の7:30分に迎えに伺った。どんよりとした空を見上げた。

雲は、低くたれ込めて、雨のような雪のような、みぞれをパラパラと降らせている。

鈴木さんのご自宅の庭を通り、玄関に立った。

「ドアホーンを押していいのかなあ、押さない方がよいし、押さないと約束に反する。」と考えながら、呼び鈴を押した。

鈴木さんが、すぐドアホーンに出た。私が、

「どうされますか。みぞれ模様です。行かなくても、また、行く機会は多い。行かないことにされますか。」と聞くと、すぐ玄関に出るとのことであった。

私は、待ちながら沼津ゴルフクラブへ電話をした。

「雪がたくさん降っているといいなあ。」と、期待したが、三島と同じみぞれで、「プレーはできる」とのことだった。

沼津ゴルフへ向かう車の中で色々お話を伺った。

「最近、絵を描くに根気がなくなった。しかし、ゴルフをした後では、根気が戻ってくる。」

「こんな日にゴルフをするのは、おかしなことだが、今日は、バカをしたな、というようなことをした方が、元気が出る。」

鈴木さんは、88才になっても、私と同じような精神的な若さを持っている。ゴルフをやることに肉体的健康と精神的健康を得ている。私は、88才まで生きているだろうか、生きていて、このような気力を持てるだろうか。私は、自分の人生に、まだ、20年以上の射程距離の長さがあることを感じた。

 沼津ゴルフに着くと、みぞれ混じりの天候に、ゴルフバックを積み戻し、引き返す車が数台いる。この日、ゴルフ場には、当初65組230名を超える予約があった。しかし、前日の2月10日に39組 144名になり、当日は、26組96名に減ってしまった。

 会長の大野さん、青木先生ご夫婦も来られた。

「やりますか。どうしますか。」

お互いの顔を見合わせる。鈴木さんは、チェックインをして、身支度をしている。そんなことで、「やるか」となった。医師会コンペは、プレー中止となり、頴川先生が合流した。愛伊駿会は、4名減って6名のプレーとなった。

 前日の2月10日、鈴木さんは、奥さんと同居のお嬢さんから、「明日、ゴルフに行くなんて、狂気の沙汰だ。私は、朝起きないし、とんでもない。」と言われたとのこと。これを、ゴルフの昼食時に話されていた。私は、そんな鈴木さんを迎えに行った、とんでもない、いたわり知らずの男になるわけだ。

「まいったなあ。確かにそうだ。」

鈴木さんは、「風邪を引かないように、ゴルフ場では、風呂に入らずに帰ることにする。」という。

私もそうした。車で、ご自宅まで送り、玄関までゴルフクラブのバックを運び、急ぎ、逃げ帰った。

2.14 朝、電話をした。

「如何でしたか。風邪など引かれませんでしたか。」

鈴木さんから元気な声が返ってきた。

「何ともありません。お陰様で、やれば、まだやれる、限界は、まだもう少し先にあることを知って元気が出ました。

 また、大野さんや後藤さんのような若い人と一緒にプレーができてよかった。上手な人と一緒に回れると、参考になりました。」と言う。

私は、鈴木さんのような方と一緒に回れると、

「人生、まだ、21年は、充分ゴルフができるし、その年まで、仕事もできる。」これを感じ、これを得たい。私は、感銘を受けるだけで、私が鈴木さんの役に立つことはないだろうと思っていたが、私も少しは役に立ったようだ。

 そして、「年甲斐もなく、バカなことをする。事によっては、これを行うことが若さの秘訣であり、大切である。」ことを肝に銘じた。

 「終わらざる夏」浅田次郎著

 鈴木さんご自身の体験が入っているとのことで、この本の購読を勧められた。鈴木さんは、陸軍士官学校を卒業され、北海道に配属、昭和20年8月15日ラジオの玉音放送で日本の降伏を知った。

 この3日後の8月18日、ソ連軍は千島列島最北端の占守島(しゅむしゅとう)へ侵攻してきた。日本が降伏文書に調印したのは9月2日であるが、すでに、8月14日、日本は、正式にポツダム宣言の受諾を米英ソ中の連合国に通告していた。それにもかかわらず、ソ連軍の侵攻は、北千島列島から国後・択捉島の南千島列島はもとよりその先を目指していた。この侵攻に対し、日本軍は、激しい戦闘を展開した。この抗戦がなければソ連軍の侵攻は、北海道に及んだことであろう。戦闘の終結後、多くの日本軍人がソ連に抑留され、千島列島がソ連の実効支配下になった。しかし、誇り高く闘った先輩、同胞とポツダム宣言受諾後のソ連軍侵攻の事実を忘れてはならない。北方領土の返還は、これらの先輩の血の願いである。この本は、下巻第8章、P317から戦闘の内容を記述する(沼津・三島図書館蔵)。

 私は、プレーのメンバー表を作るとき、先輩は、先輩の組として組んできた傾向があったように思う。もっと積極的に混ぜ合わせた組み合わせがよい。大泉さん、鈴木さん、小野さんの陸軍士官学校3人の方々は、「90才まで、ゴルフする約束」がある。これを実現し、更に、90才を越えてプレーをして戴きたい。我々に何かできるのではないか、その役割がある。

2011.2.14(月)後藤正治 記

 この原稿、愛伊駿会のメンバーにお送りしたところ、2011.2.23 大泉さんから手紙を頂いた。

「前略、ファックスとても面白く拝見しました。冷たい雨の中をよくも頑張ったものと感心しております。

 ところで、ゴルフ送迎の件、有り難いお話ですが、小生の近く百米位のところに大野さんの自宅があり、一緒にとの話しもありました。車に馴れる為に、今暫く自分で運転することにしました。鈴木君とは三島駅で落ち合い往復しておりますが、今回は、先生に自宅迄送迎していただいたと、とても喜んでおりました。小野君は、ハイヤーを利用しております。車をそろそろとは思っておりますが、身体の調子を見て、今暫くやりたいと思っております。健康第一 ゴルフのお陰です。ご自愛の程祈ります。」

 と、丁寧、達筆、しっかりした字で、書いてきて下さった。

 「仕方がない。」

 私が「おぎゃあ!」と、生まれた時、大泉さんは、22才、偵察機に乗っておられ、戦地で激しく闘われていた。大泉さんのお顔を思い起こすと、何も、言うことはできない。自律心に敬服し、ご壮健と無事故を願い、いつでも、声をかけて下されば、伺うことを念じ、私は、事務局を務める。

2011.2.24(木)追記

 ところで、このお三方は、どうして、これほど元気なのだろうか。夢がある、目的がある、好奇心が強い。それもあるだろう。更に、私は、責任感、使命感と思った。若くして散っていった多くの戦友たち、その人達の分、二倍でも三倍でも、自分が生きて、精一杯、有意に生きる。こう考えていらっしゃるのではないだろうか。

 そうか、どうか、私は、伺っていない。問題は、私に元気さの根源があるか。私がどう生きるか、有意に生きるとは何か、私の生きる意味をもう一度問うことにある。

2011.3.04(金)追記

 2011年から8年を過ぎた。お元気だったお三方は、今は、いない。しかし、私には、お三方の精神を心に残る。「今日は、バカをしたな、というようなことをした方が、元気が出る。」「終わらざる夏」浅田次郎著を通じて「北方領土の返還は、これらの先輩の血の願いである。」を無言のうちに伝えてきた鈴木さん、若くして散っていった多くの戦友たち、その人達の分、二倍でも三倍でも、自分が生きて、精一杯、有意に生きる思いの大泉さん、小野金弥さん、どう生きるか、有意に生きるとは何か、私の生きる意味をもう一度問うことを求められていると思う。

2019.6.29(土)追記

心を研ぐ

 医学が進み、食事も豊かな時代となり、寿命が延びた。90歳になっても、元気な方が多い。日本で100歳を超える人は、1963年全国で153人だったが、2019年では7万人の時代になった。この傾向は、ますます高くなり、人生100年時代を迎えることも2045年と言われ、間もないところである。そうすると、これに対応した人生設計が必要となる。

 20代で仕事につき、30代前後で結婚して家庭を持って子育てをして、60で定年を迎え、年金で老後を送る人生が一般的であったが、この変更を余儀なくされている。定年後、100歳まで40年を生き抜くことはできない。そのためには、70歳.80歳まで働く意欲と体力や有形の資産を大切にすることだが、これ以上に無形の資産が大切だ。生涯を通じて複数の新しいスキルと専門技術を獲得し続けること、人生の途中で変化と新しいステージへの移行を成功させる意思と能力、肉体的・精神的健康や友人や家族との良好な関係は生活の基盤として重要だ。リンダ・グラットン(ロンドン・ビジネススクール教授)は、「ライフ・シフト」を表した。

 大学の校友会幹事の先輩方には、81歳、84歳、87歳の方がおられる。皆、意欲的な方々だ。ほかの方々も、原稿を書く、資格を取る、海外奨学金制度ボランティア、温泉探訪など前向きな方々ばかりだ。100年時代に向けて人生を送るには、年令に伴う肉体的若さの減退について工夫が大切だが、いかに気力を高め、モチベーションを維持するか、精神力を研ぐことが課題となる。

 私は、昨年、次の言葉を聞いた。

「50、60 はなたれ小僧、70、80 働き盛り、90になって迎えがきたら、100まで待てと追い帰せ」

 心留まる言葉だったので、メモするとともに、どのような人が言っている言葉だろうか、正確な言葉は何かを調べたところ、渋沢栄一の言葉だった。

 渋沢栄一は、「四十、五十は鼻たれ小僧、六十、七十は働き盛り、九十になって迎えが来たら、百まで待てと追い返せ」とのことだった。私が、聞いた言葉は、10歳プラスした内容となっていた。人生100年を迎えようとする時代を考えると、このアレンジが適切になっている。

 この言葉、「いい言葉だなあ」と思い、大切に心に刻んでいたところ、札幌の友人から彫刻家 平櫛田中の105歳のときの言葉が届いた。

「六十七十ははなたれこぞう おとこざかりは百から百から わしもこれからこれから」というものだ。大らかで、伸びやかな言葉に、おもわず笑いが込み上げてきた。およそ無理であろうが、こうありたいと思った。

 その友人が、サムエル・ウルマンの詩を送ってくれた。この方は、アメリカの詩人で80歳の誕生日に当たり、家族が出版したウルマンの詩集『80年の歳月から』の中に収められた詩の一つだ。短くしたので、原典にあたって欲しい。


青春

青春とは人生のある期間ではなく 心の持ち方をいう。

たくましい意志、ゆたかな想像力、もえる情熱をさす。

やすきにつく気持ちを振り捨てる冒険心

驚異にひかれる心、未知への探求心

頭を高く上げ希望の波をとらえるかぎり

いつまでも人は青春の中にいる。


 どこの国、いつの時代でも、「若さ」とは何かを問い、詩っている。

 ところで、このように我々は、青春の燃える想いを再認識して、さらなる人生を模索したいと思うと同時に、他方で、「騏驥、衰ふるや、駑馬、之に先だつ」(戦国策・斉巻第四、閔王、一五八、蘇子説齊閔王曰)という事実が眼の前に立ちはだかることも避けられない。87歳になり、自動車事故により若い母子の命を奪ってしまった高齢の人の立場になることは、絶対に回避しなければならない。燃える想いと駑馬となりつつある知力と身体能力とのせめぎ合いをどうするか、何を考え、どう行動するか、問われる。

 一つの考えは、人により差はあるが、ある年齢を境として、燃える想いと駑馬とを切り分ける。もう一つは、「青春の詩」をいつまでも歌い続け、駑馬とさせるのは、物事により区別する。私は、後者がよい。運転など外部へ危険が伴う肉体的ことがらからは退き、知的な仕事で重要な役割を担うことは、後進に委ねる。この時期をいつとするかは、職業や人により差が出てくるであろうが、80を過ぎたならば、じっくり検討すべき時になる。これに対し、外部に影響を与えない肉体的ことがらや精神的なことがらは、「百から百から」でよい。

 では、外部に影響を与えない肉体的行為とはなんだろう。ゴルフ、自作農園、料理、旅行、陶芸、音楽、たくさんある。外部に影響を与えない精神的活動は、何があるだろう。補佐役に徹する、原稿を書く、大学へ行く、研究する、これらは、いつまでも続けられるだろう。

 いつまでも心を研ぎ、燃える想いは、永遠に燃やし続け、駑馬と共に生き行く必要がある。

以上

2019.06.29(金)後藤正治記

2019.08.7追記

本との出会い(資本主義の未来)

 パソコンのゲームは、次々と新しいものが生まれる。新しいルールと新しいやり方が必要だ。資本主義も新しいゲームが始まっている。そこには新しいルールがあり、ここで勝ち抜くには、これまでと違う戦略が必要だと説くのがレスター・C・サローの「資本主義の未来」(TBSブリタニカ)という本だ。産業革命は、農業中心に営まれていた封建社会を新しい領主である資本家とその軍団が支配する産業資本社会に変えた。新しいゲームが開始したことを認識できなかった封建領主などは、没落せざるを得なかった。資本主義は、かつて恐竜が絶滅して哺乳類の世界が始まった平衡断絶の時代のように新しい段階に入っていると説く。

 このような社会基盤が代わる理由は何であろうか。サローは、地質学のプレートテクトニクスの力のせめぎ合いからアプローチする。地球上を幾つかのプレートが覆っているが、このプレートの移動が大陸移動とひずみを造る。社会も同様だ。資本主義の要素であるプレートがゆっくりではあるがその基盤を動かし、やがて質的な変換をもたらす。共産主義の崩壊、資本社会から頭脳社会への変動、人口の増加と高齢化などがそのプレートであり、資本主義が生まれた時期から大きく動いているという。

 この本は、内容もさることながらアプローチの手法にも牽かれる。私たちは、プレートのひしめき合いの中に生きる。仕事や家庭のプレートの中で我々の精神界プレートは、軋みを立てる。中・高校生などがいじめにより自殺したりするのは、そのプレートの厳しさの中に沈み込まれていくことを表している。そして、我々が如何にしてプレートに対処すべきかを問われているように思える。

 私は、ある方から1冊、ある時は5冊と本を頂く。10冊をお贈り頂いた時は、家内ともども何が届いたのだろうかと、びっくりしてしまった。私は、この方にどのようにお返ししたら良いだろうかと考えた。結果は、今度は、私が感銘したりした本を、他の方々に頂いた本の数以上にお送りすることだと思った。「資本主義の未来」この本は、私が、知人に贈らせて頂いた本の一つである。

1998.5.2(土)静岡新聞夕刊搭載、後藤正治 記

本との出会い(若き人々への言葉)

 私は、昭和34年4月、中学校を卒業して、朝、豆腐を作り、昼、豆腐を売る、夜は、高校に通う毎日となった。どうして自分が夜の学校へ通わなければならないか、豆腐を売り歩く毎日なのか、割り切れない毎日が続いた。やがて日大短大の夜学から通信教育の経済学部へ編入学した。この通信の夏期スクーリングで司法試験に巡り逢った。しかし、豆腐を売り歩く毎日は変わらない。司法試験という希望を持つことができたが、他方で、自分の希望と現実との距離の遠さに愕然とする思いがあった。

 こんな時に出会った本が、「若き人々への言葉」(角川書店)だった。「星の軌道に予定されているお前には、星よ、暗黒は何のかかわりがあるか。最も遥かなる世界に、お前の輝きはある。同情は、お前に対する罪であるはずだ。」(星のモラル)という詩は、電光に打たれたような衝撃を私に与えた。この本は、ニーチェ全集のエッセンスとも言える本で、200頁ほどの小さな文庫本だ。この中に、人生論、友人論などがあった。私は、この本の全文を理解することはできなかった。しかし、自分に一言でいい、問いかけ、飛躍させてくれる部分があれば良かった。この本の叙事詩に溢れる生への意欲は、私の悩みきった精神界へ流れこみ挑戦への意志を与えてくれた。

 「彼方へ!ぼくは、行くのだ」(新しい海へ)。私は、この本をジーパンの後のポケットにつっこんで、三島市の谷田・大中島・小中島などへ豆腐を売って歩いた。今から思えば、弁護士に至る長い道のりをよく歩いて来たなあ、と思うが、「独力で行け」、ひたむきなエネルギーは、ニーチェによって与えられた。豆腐を売る姿は、私の苦しい思い出であるが、この本との出会いが心に光っている。

1998.5.9(土)静岡新聞夕刊搭載、後藤正治記