年賀状

 毎年12月になると、年賀状をどのように書くか、一つの仕事になっている。中学校を卒業して仕事に就いたころは、何の負担もなかった。数が少なかったので、下手ではあったが、内容も宛名も手書きで出していた。昭和44年、24才、司法書士の事務所を持ち、友人の他に仕事上のお世話を頂く方が増すに連れて年賀ハガキの数が増えてきた。次第に、手書きで追いつかなくなり、印刷になった。しかし、少なくとも宛名は手書きだ。

 弁護士になり、年賀状の数が更に多くなってきた。内容は印刷、宛名もワープロ専用機に頼んだ。しかし、疑問が沸いて仕方がない。1年にたった一回の年賀に表も裏も印刷では、いったい何のための年賀状なのだろうか。弁護士時代より豆腐屋時代の方が心がこもった年賀状と言える。

 社会的活動の範囲が広くなるにつれて人との交流は多くなる。コミュニケーションの手段が、電話、ファックス、パソコン通信、携帯電話、E-Mailと多様で簡便になって、多くの人との交流が可能になる。この手段は、これからも新しい方法が生まれ、迅速化するだろう。しかし、ホットな心の部分は、機械という水で薄められて、心の味がしないものを伝えるようになっている。年賀状の印刷は、単なるこの現れの一つに過ぎない。科学技術の発達、コンピューター化による物質的な豊かさは、心の貧しさを作る。

 考えて、内容に一言で良いから、書き加えるようにした。しかし、送る人の顔を思い浮かべながら、一言を入れるとなると、大変な作業だ。毎年、11月から書こうとするが、実現しない。12月28,29日になっても終わらない。ついには、晦日、大晦日に出すようになっていた。再度の疑問が出た。年賀状は、苦痛のためにあるのだろうか。

 そこで、年賀ハガキから年賀封筒にした。印刷ではあるが、「心を込める」ことに工夫しよう。こうしてマッキントッシュのグラフィックソフト・フォトショップとワープロソフトを使って年賀状を作り、カラーレーザープリンターで印刷を始めた。図柄、色、レイアウトも試し印刷を行い、決めていく。封筒と紙の色、紙質で良いものはないか。仕事で横浜や東京へ行く際に、探してみる。文字書体のフォントも明朝体、ゴシック体、行書体、正楷書体などを検討する。内容は、ニュースレターのようになっている。いつも、これで良いのだろうか、と思うが、現在の一つの結果であることに違いはない。

 年賀状を頂く人も増えた。いろいろある。最近は、カラフルな楽しい年賀状が増えてきた。パソコン時代を反映して、パソコンを使い、カラー印刷をしている。絵や写真、文字も1文字づつ色を違えてくる。デジタルカメラを使って、家族写真を取り入れて、あるいは、子どもの写真を入れている。子ども達の写真を見ていると、ほほえましい。

 陶芸家から年賀ハガキを頂いた。手すきの和紙で作られたハガキ。画面一杯に振り返っている馬の版画を彫り、黒でハガキに刷り込む。「2002年春」の言葉は金色、そして、落款。3色刷となる。表の宛名書きは筆。「そうだ! 私は、このハガキを額に入れて1年間、この人の情熱を見つめよう」。

 他方で、表も裏も印刷の人がいる。文面は、謹賀新年やこれと類似した言葉と「本年もよろしくお願いいたします。」と言うだけのもの。このような年賀ハガキを見ると、「仕事が忙しいんだなあ、自分と同じだなあ」と思う。しかし、他方で、これならば、出さない方がいいのではないか、と思う。もしかして、私は、無理矢理、この人に年賀状を書かせてしまっているのではなかろうか。そうだとすれば、年賀状を出すことを私の方から止めてしまった方がいいのではなかろうか。

 丁寧な年賀状を頂く。お忙しいのに、一言を入れてあるハガキ。また、内容も自分の言葉で、絵もきれいに入れてあるハガキ。1年に一回のやりとりでも、心暖かいものが伝わってくる。見習いたい年賀状、だけど、見習えない自分。来年の年賀状は、「心を伝える」ことで、前進できるのだろうか。

 年賀状を出さない道もある。ハガキ1枚で、心を伝えることは出来ないし、まして、印刷で済ませるわけはない。空疎な年賀を大量に交換することに参加できない。他にも心を伝える方法がある。誠実に考えを突き詰めると、出さないことに行きつくだろう。私は、そこまで行っていない。しかし、紙一重なのかも知れない。

 ふと、横から声がする。「ごっちゃん、何をグダグダ考えているんだ。毎年12月はやってくる。皆、出す。俺は普通人。俺も出す。忙しい。印刷しかない。パソコンがあるから宛名はプリンター。まだ、生きているんだ、と言う連絡にはなる。1年を終わり迎える、楽しみにしていた正月休み。28日過ぎて書くことはない。家族で旅行も大切だ。去年は、ハワイ。今年は、国内でスキー。来年も来る。それでいいじゃあないか。」

 のう天気な奴だ。しかし、一つの見識だ。尽きるところ、年賀状、出すも出さぬも、いかに出すかも、いろいろ考えるかどうかも含めて性格だ。

2002.01.06(日)後藤正治 記

2002.01.17(木)加筆

インパクトの位置

 ゴルフを一生懸命やるが、なかなか上手くいかない。いろいろ言われても、身体が付いていかない。スイングの際、「頭が上下している。左右に振れる。」と指摘され、これを意識して動かなくなった。次の課題に移ると、前に言われたことがおろそかになっている。

 「ゴルフクラブを振るときに、ボールの位置にインパクトを持っていっても駄目だ。ボールの位置が時計の6時の位置にあるとすれば、インパクトは、8時のところ、あるいは9時のところにある。素振りで、クラブを振ったとき、ビュン、ビュンと言う風を切る音が左側で聞こえなければいけないんだ。」こう言われた。プロではないが、ゴルフの知人であり、ハンディ10くらいの方だ。私からすれば、見上げるような人になる。

『どういうことだろうか。ボールが、6時の位置にある以上、ボールの位置が最大の力の入れどころではないか。』

 クラブを振り、音を確かめる。確かに、音は、振り方で、ビュン、ビュンと言う音が左、あるいは、右から聞こえる。練習場で8時、9時のインパクトで打ってみる。試しても、簡単に実現できない。意味も考えてみた。この意見が理解でき、身体に体感できるようになったのは、言われて半年も経ってからである。これを機に飛距離が伸びた。

 ギターの先生が言う。「ギターの弦を急ぎ弾いても良い音は出ません。私は、ゴルフをやりませんが、プロゴルファーを見ていると、スイングは、ゆっくりです。これで、飛ぶのだろうか、と思うようにクラブを振っていますが、良く飛んでいる。ギターもゴルフも同じなんです。ギターの音もゴルフボールと同じで、音を遠くまで飛ばすには、急いで弾いてはいけない。弦のインパクトの位置は、弾こうとする弦にあるのではなく、弦を過ぎたところにあるのです。弦を弾くまではゆっくり、そして、しっかり弦を捉えて振り切るんです。指は、弦を過ぎた3・4弦先、指がまでこれ以上行かないところまで、しっかり抜くことです。これで、音が遠くまで、飛ぶのです」

『どういうことか? ギターのレッスンで、ゴルフボールを打つクラブの話しとは何か?』

 すでに、ゴルフクラブを振ることで、ゴルフのインパクトの位置を随分考え、クラブを振ってきたから理解は早い。ギターの先生の意味は分かる。しかし、ゴルフとギターが同一で、弦を弾くことは、ゆっくりで良く、インパクトが弦を過ぎたところにあると言うことは、なかなか実感できない。

 毎日、「そうかなあ」、と考える。次第に、「そうだなあ」、と思うようになる。こうして理由が頭に入るのに、3ヶ月くらいはかかった。しかし、指は、理解したほど、簡単に動いてくれない。

 水泳を1週間に一度、岩崎恭子ちゃんを輩出した沼津スポーツクラブに通い、コーチにレッスンを受けている。クロールだけに専念し、5年目に入った。2ビートでキックし、クイックターン1000mを目指しているが、容易に実現しない。2ビートというのは、右手を1回、回すときに右足を1回キックし、左手を1回、回すときに左足を1回キックする泳法である。ここでも、クロールのインパクトの位置は、何処か、考える。腕の回転のすべてに力を入れるのではなく、どこへ力を入れ、どこを脱力するのか、である。

 水泳の選手の話をテレビで見ていたところ、ゴールの位置は、タッチするプールサイドにあるのではなく、もっと遠くにある、とのことだ。最後のインパクトの位置をプールサイドに置くと、もうゴールだ、ということで、失速してしまうというのだ。水泳では、腕を回転する場面とゴールの場面で、インパクトの位置を2つ考えることになる。

 ボクシングのセコンドをやっている友人に聞いてみた。

『ボクシングで、相手の顔面にパンチを加える際のインパクトは、何処にあるの?顔面自体にあるの?』

 彼は、「顔面の後ろ、顔面を貫くように、打つんだ。」、という。インパクトの位置は、通常の思う顔面より奥にあった。野球のバッター、テニスプレイヤー、ピアノの奏者、みなインパクトの位置は、私の思うところに、持っていないだろう。

 ところで、人生のインパクトは、どこにあるんだろうか。インパクトの位置がこれほど思っていた場所と現実とが違っていると、考えざるをえない。人生の場合、エネルギーをかける位置は、仕事だ。しかし、仕事は、ただ一生懸命やればいいのだろうか。人生の音や人生のボールを遠くへ飛ばすことは、がむしゃらに仕事をやることで実現するのだろうか。これは、ゴルフで、気持だけは遠くへ飛ばそうと、クラブを力一杯、振り回しているのと同じではないか。

 仕事人間が家に帰る時間は、夜の11時、12時だ。家は、寝るだけの場所となる。そして、朝、早く一人で食事をして会社へ向かう。これは、やむを得ない道である。しかし、子供たちと話す時間もなく、子供たちは大きくなる。たまに会うと、「勉強してるか。」と聞くことになり、親子との距離が遠くなる。子供からの抵抗を受けると、「自分は、何のために仕事をしているのだろうか。子供のために生きているのに、情けなくなる。」こういう企業戦士の悲哀を聞く。

 人生のインパクトの位置は、何処にあるのだろうか。仕事だけで良いのか。心だけではなく、時間の過ごし方を家庭、そして、子供たちの成長へ移動させることが必要だろう。この方が人生の飛距離が伸びることになるのではないか。

 「いや、違うよ。」

 「インパクトの位置は、6時の位置を過ぎた8時、9時にある。そうすると、仕事の場合、夜の付き合い、一杯。ここがインパクトの位置だ。これで仕事の飛距離が伸びるというもんだ。」

 飲み助の声がする。

2012.06.12(火) 後藤正治記

パソコンゲーム

 私は、ゲームソフトをハードディスクに入れない、フロッピーでも持たないようにしている。ゲームが嫌いなわけではない。むしろ、好きだから触れさせないようにしている。

 麻雀ゲームが入ったときには、土曜日、仕事をしている時間だというのに、つい手を出して午前中やってしまった。パソコンゲームから「中級レベルです。」と誉められて、午後もやってしまった。昼食は、弁当を買ってきてもらい、弁当を食べながら、熱中する。これを知らない事務の者から「今日は、仕事がはかどっていますね。」といわれる。「うーん、うん」と、返事も上の空で画面にかじりつく。

 6時が来て「もう、帰ろうかな」と思う頃、パソコンゲームから「後、もう少しで上級レベルだよ」とこちらが止めようと思っているのを知っているように、またまた、誉め言葉を言ってくる。「いやだなあー、だけど面白い」今度は、パンをかじりながら上級レベルを目指して画面に向かう。こうして、上級レベルにはなれなかったもののまあまあの手応えを感じ、そして、バカな1日を過ごしてしまったなあ、と自責の念に駆られながら、午前1時、家族の元へ帰っていった。

 これではいかん。人生を狂わせる。しかし、面白い。いろいろと頭の中で、善玉と悪玉の戦いが続いた。長い戦いの末、善玉が勝ち、ハードディスクからはずすことになった。

 しかし、人生は楽しいことばかりは続かない。ときどき、くさくさするときがあり、また、むなしい人生を感じるときがある。こう言うとき、甘いささやきが耳元にはいる。「あそこに好きなゲームのフロッピーがあるぞ。少しならいいじゃないか、やってみたら。毎日やる訳じゃあないし、こう言うときには、許されると言うものだよ。何も、難しいことばかり考えなくてもいいじゃあないか。」ーーー「もっともだ」と思う私は、いそいそとフロッピーを差し込み、またまた、ソフトに誉められることになる。

 こういう繰り返しの後、フロッピーごと、すべて廃棄処分することにした。テトリスも同じようなものだった。「君は、決して集中力がないわけではないが、これが良い方向へ使えたら、もっと、のびるのだがなあ」といつも自分自身に嘆く。

1997.2.16(日)後藤正治記

 電車に乗ると子供達がゲーム機に夢中になっているのを見る。子供の小さな手のひらにすっぽり入ってしまうほどの小ささだ。かっての人気商品たまごっちというゲーム機は、人気が高くて手に入らない時期が続いたと聞いた。このソフトは、卵から雛がかえって成長していくが、上手に育てないと、すねたり、不良になったりするという。

 マックの古い時代に作られたソフトにシムシテイというソフトがある。これは、市長の立場になって都市を運営するもので、税金の賦課や電力の生産を図りながら都市の発展を企画する。人口の増大に伴い公共施設を増設していかなければならないが、税金を増やしすぎると、人口が減少していく。また、余りたくさんの原子力発電所を増設すると原子力事故になったり、公害が発生するというゲームである。たまごっちは、こんなソフトの似たものと想像し、ゲーム機もテレビゲームのような大きさかと思ったが、手のひらサイズで驚いた。親は、プレミアム付きでも子供の求めで購入していったという。こんな小さい機械に向かって動く電車の中で集中しているのを見ると、目が悪くなるだろう、頭も痛くなるだろうにと心配する。

 こういうゲーム機やソフトの人気に刺激されて、若い頭脳が新しいゲームソフトの開発にしのぎを削っている。1つのソフトの成功で何億円の報酬が入ったという成功談やある著名大学の卒業生達がゲームソフト作成の新会社を作ったという話がテレビで報道されたりしている。しかし、「待てよ。」と思う。

 人が生きて行くには、農業や工業などが不可欠で、ゲーム機やゲームソフトで世の中の基礎的生活が支えられるわけではない。パソコンで仕事をするのは、クリエイティブだといわれるが、ゲームをやることやゲームソフトを作ることが、期待されているわけではない。ゲームを作ることより農業や漁業の方がクリエイティブではなかろうか。ゲームソフトの開発会社を設立することがベンチャービジネスと言われるのでは、おかしい。もとよりゲームを否定するわけではないが、距離を置くことが必要だ。ゲームで遊んで育ち、大きくなってゲーム機を作る会社に就職し、ゲームソフトを開発する人たちをみても喜べない。国は、社会は、どうなるのかと心配になる。生きていくための資源は、耕作など身体をはって作るものと思う私にとって、ゲームソフトやゲーム機の華やかさには虚しさが走る。自動車の発展と交通渋滞や排気ガス公害を見ていると、パソコンゲームの人気とその結末がだぶって見えてくる。

1999.4.05(月)追記

美の芽ばえ

 私は、ふだん美術というものに縁がない。司法書士などという法律を職業としていると心に一致するものがなくなるのであろうか。仕事が終れば会合や付合いで外へ出たり、家で読書か、テレビかというように時の回転は動的であるが単調にてして且つ惰性的に運ばれると、美術というものいわぬ世界には仲々とけ込めないのかも知れない。それでも佐野美術館友の会へ入って鑑賞する内に、私の不毛の美術の地に、ほんの少し芽が出て来たようだ。

 私は元来、絵というものは写美的なものが正当な絵であって、抽象的な絵は邪道であると感じていた。例えば、風景を描くにしても道があれば道を描き、石があったら石も描く、そして水溜りでも何でも事物の実際と同じように描くという、いわゆる写実主義の観念が強かったのである。従って、絵画は、写実的なものを好んだ。

 ところが、山水画展を見ていたら写実派オンリーの考え方が変ってきた。山水画は、自然を見て印象の強い所だけ描くという感じだ。いわば、写実派は、土をシャペルでとれば、それを形が変らないように紙に載せる。山水画は土をふるいにかけ、大きい石である印象を紙へ載せるという感じがする。

 私は、ここで考えた。絵を画くということは、人間の知的活動の一つである。事物を見、それを何号かの自由な世界に再現する時、人間のすべての感覚やエネルギーがぶつけられるが、その出来た絵が写実画ばかりとしたら、人間の所産としての絵画は大変狭隘なものになると気がついた。絵が描かれる時は、人間の感覚と想像カによってふるいにかけられたり、おし拡げられたりする。

 人間の頭脳は写真機ではない。自然なり何なりを見、それが人間の頭脳を通ってから再現されてゆく以上、再現された絵は、写実画、抽象画等、幅広い絵が個々人の個性と感覚の中から生まれ描かれてゆくべきだ。私は、抽象画の存在意義が少し解った。私は、今までより抽象画を理解するようになるだろう。

佐野美術館友の会会報原稿

1969.8.5(火)後藤正治 記

下半身不随

 私と同年、昭和19年生まれの鈴木葉子さん(仮名)が、交通事故に遭遇したのは、平成14年1月だった。彼女は、最初の訪問介護を終えて次のお宅で頼まれていた食事材料などの買い物をして、午前8時30分、50ccの原動機付き自転車で、キープレフトを守り、そのお宅へ向かう途中だった。

 普通乗用自動車がセンターラインを超えて、対向車線に進入してきた。彼女は、全身打撲、脊髄損傷、右足複雑骨折、肋骨骨折、意識不明、自己呼吸不全、全治10ヶ月の診断であった。気が付いたのは、2日後の病院の集中治療室である。幸い命は助かったが、10ヶ月経っても身体は、戻ることなく下半身不随となってしまった。

 下半身不随の方を外部からだけ見ると、ただ、車椅子だけの生活であるかのように見え、その大変さを感じることが少ない。しかし、脊髄損傷により下半身の神経がすべて麻痺してしまい、両足が動かないばかりか、筋肉の硬直、しびれ、こわばり、むくみ、筋の硬直があると、その状態は筆舌に尽きがたい。

 両足が足のつま先にかけて、付け根から両足が内側にめり込んでいく。両膝がくっついた状態になり、更に、内側に入り込む。これを内転と言う。この状態だと、着替えが困難となるし、トイレの用を足すことができない。内転を防ぐには、下半身をマッサージして、筋肉と筋の硬直をほぐすことが必要となる。このマッサージは、2〜3時間必要である。彼女のような下半身不随の身体は、その日にマッサージをして硬直がほぐれても、次の日になると、硬直してしまっている。だから、朝、温かい湯に入り、マッサージは、毎日、必要となる。

 下半身の硬直とむくみは、次第に強くなっていく。硬直は、事故後、3ヶ月経過したころから始まった。一晩寝て、朝起きると、両足が交差してしまっている。それは、右足が左足の位置を越え、左足が右足を位置を越えているのである。この交差を防ぐために、睡眠に付く前に座布団を二つに折って、股に挟んで寝る。しかし、座布団は、ほとんど、毎日、寝ている間にずれてしまい、両足が交差してしまう。朝起きると、足が綾のようになっているので、両手で身体を起こし、ベッドの上で綾になっている両足をこじ開けて、座布団を挟み込む。これが朝起きて、まず、やらなければならないことになる。昼間の硬直の進み具合は、同じなので車椅子に座りながらも、股にスポンジを芯にしたものを挟むようにする。内転が始まり、しばらくの期間、両膝の部分の床ずれに苦労したが、座布団を挟むことで、改善した。この両足の内側への硬直を解くには、足の筋を切断すれば、解放される。しかし、反対に、足がだらりとしてしまい、その足の支えをどうするかが、課題になってしまう。また、筋の切断は、足に対する一切のリハビリを捨ててしまうことになるので、筋の切断に踏み切れないジレンマに陥る。

 床ずれは、1晩でできる。最初は、赤くなる。神経が遮断されているので、自分では分からない。防止法は、電動ベッドがある。1時間ごと、30分ごとに向きを変えるのであるが、これでは、寝ることは、できない。床ずれは、膝だけではなく、腰と踵にできやすい。膝の部分は、座布団で、対応するが、腰の床ずれは、足が動かないので、寝返りをうてないため生じる。元気な頃、当たり前のことと思っていた、寝返りや普段の手足の動作が、これほど、重要なことだと思わなかった。

 寝返りを打つにも、身体全体の寝返りはできない。右から左の方へ身体の向きを変えるには、寝たまま、右手で、左側にあるベッドの手すりを捕まえる。右手で上半身を引きよせると上半身が左側方向に浮くので、浮いたところへ、すかさず、用意してあった座布団をあてがう。これで、若干、身体の位置が変わるが、これが彼女の寝返りで、床ずれの箇所を変えることができる。2時間半位すると、床ずれの痛さがぼんやりと伝わってくる。そうすると、今度は逆の方向へ同じような寝返りを打つ。夜、8時間睡眠をとると言っても、このように、最低、3回は、寝返りをしなければならないので、熟睡できない。時には、熟睡する。この時間は、3時間、4時間となるが、寝返りをしないため床ずれの症状が悪化して、苦しむ。だから、熟睡が怖い。

 踵の床ずれだが、両足の感覚は、左右が微妙に異なる。左足は、触感、温感、痛感などが全くない。右足は、触感、温感、痛感がほんの少し感じる。床ずれに伴う痛みは、右足に感じる。そこで、右足に来る痛みで、左足も同じ状態ではないか、と思い、一緒に位置を変える。このように気を付けているが、右足に僅かに感じる感覚を頼るほかないので、対応は十分ではないから踵に、床ずれが生まれてしまう。

 両足は、本人の意志に関係なく、微妙に震える。その痙攣で、ベッドから、右側へ右足だけが落ちていたり、左側へ左足だけが落ちている時がある。右足の感覚も鈍いので、右足が落ちていればすぐ分かるというものではない。「今日は、身体が疲れる。」と、思い、「変だな」と、感じていると、足がベッドから落ちていることを知る。ベッドの手すりは、頭側の上半分だけあり、下半分には手すりがない。手すりが全部にあるといいが、他方で、ベッドから車椅子に移るときに、その都度、手すりを外さなければならない。このためすべてのベッドが下半分は手すりがない。

 下半身が麻痺していて、痙攣をするので、昼間も、寝るまでの間、防御用の靴を履く。この靴を履かないと、足に何かぶつかり、打撲や出血をしても分からない。入浴した時に、足の傷の悪化しているのに気が付く。腰の床ずれは、失禁した時、トイレで職員さんが見つけてくれて、判るという状態である。

 排便も大変である。下半身不随は、下半身の全神経がだめになっていることである。排便は、健常者の場合、排便を催すことから始まり、肛門の筋肉もしっかりしているから失禁はない。しかし、彼女の場合、この排便の意識がほとんどない。排便の催しも、「何かお腹が、普通と違うな。痛みのようなものを少し感じるな、足がいつもより痙攣するな、それが、排便なのか、お腹が痛いのか、分からないな。」という感覚である。肛門の閉まりを全くコントロールができないので、排便の段階になると、排便の事実だけが進む。悲しいことに、排便してしまったイヤな感触も分からない。臭いが漂ってきて、「ああ、してしまったんだな」、と思う。この時の、悲しみ、健康なときの自由だったときを、思い出すと、なんと表現していいか、涙がこみ上げてくる。

 だから、時間を考え、予め行くようにする。しかし、決して、時間だけで対応できるわけではないので、失敗は、未だに、避けられない。汚物室で、汚れ物を洗わなければならない情けなさ、恥ずかしさは、何と言い表したら良いか、わからない。

 排便は、始まってからでは遅いので、予め行うことにする。しかし、無理に排便させるので、排便を促す必要がある。座薬を使用して、5分待つ。自然に降りてくる場合もあるが、降りてくる場合が少ないので、ゴムの手袋を右手にはめて、排便の用意をする。左手は、手すりに掴まって、ゴムの手袋をした右手の指をお尻に挿入して、身体を「く」の字にして排便を促す。これを、摘便という。便は、当初は、硬くなっているのが、普通だから排便には苦労する。全部が排便できるまで、済ませないと、その後に、自然排便があると大変なので、軟らかい便がでるまで摘便を行う。時間は、早いときで40分、長いと1時間半以上、トイレにいる状態になる。真夏には、汗だくでトイレをして、終わる頃には足もむくみ、疲れ切ってしまう。自宅に戻るようになると、彼女が一つを占拠してしまうので、家族用の普通の便所と障害者用の便所の2つ必要になる。

 小水は、排便と異なり、お腹に伝わってくるものもない。全く催す意識がない。だから、膀胱の許容量を超えると、勝手に出てきてしまう。定期的に、時間感覚で、行くようにする。この場合、生理的には、排尿の段階に来ていないので、自力で排尿できない。カテーテルを自分で挿入する。神経がないから、痛みは感じないが、うまくいかないときには、尿道に傷を付けて出血する。小水の時間は、カテーテルを使うので、掴まる手すりなどの消毒、両手の消毒、器具の消毒、これも使用前と使用後の消毒をするので、20分くらいかかる。リハビリテーションセンターでは、尿道へ接続したままの状態でお小水を出していたが、同時に、ここでカテーテルの使用法を練習を行ってきた。カテーテルの使用は、平成15年5月に、リハビリテーションセンターに来てからである。お小水の回数を減らすために、水分やお茶をとるのを減らすことも考えられるが、水分をしっかりとらないと、便が硬くなって、困ることになり、尿道が汚れる等、いろいろ問題が起きる。だから、水分は多めにとらなければならない。小水の回数は、毎日5回をリズムにする。

 用足しの場所であるが、車椅子が入る大きなトイレでないと、行うことはできない。病院内では、設備があるので、自分でやることができる。しかし、マッサージを受けに行く、裁判所へ行く等の時には、大きなトイレがあるかどうか、なければ、どこにあるか、時間の余裕はあるか、対応できるか、等、考えなければなたない。街の障害者用トイレの90%は、少しでも立てる人を前提にしている。手すりがあって、それが動かないので、車椅子から乗り移れない。鈴木さんのような下半身不随の方は使用できない。市役所、裁判所、官公庁、沼津駅には、南口の駅構内に大きなトイレが作られている。JRの駅構内の場合、電車利用者でない者も利用して下さい、とのことであるが、外から入ることは躊躇してしまうだろう。

  このように、外へ行くときには、トイレへ行く道のり、階段、車の置き場所までも考える。だから、トイレだけを考えても、同窓会や旅行など通常の楽しみがすべてできなくなっている。彼女は、排便など、このように強いられる毎日、話さなければ分かってもらえないこと、話すこと自体、すべてが悔しい、悲しい、もどかしい、いらだちを感じる。

 そのほか、いろいろなことに支障が生じる。朝起きて、ベッドから車椅子へ移るが、両足が動かないので、容易ではない。車椅子に乗ると、寝るまで、ベッドには移らない。できれば時々、ベッドに横たわり身体を休ませたいが、乗り降りが大変なので、車椅子に乗っている。車椅子に乗ってばかりいると、血流が悪くなり、足に浮腫、骨盤の歪みが生じる。

 3回の食事は、自分で取るが、足が勝手に跳ね上がったりするので、熱いものがトレーに乗っているときには気を付けなければならない。掃除、洗濯は、車椅子を使ってできる範囲で行うが、限度がある。

 家での自立生活を考えると、料理を作ることでも、材料を買う、洗う、包丁で切る、煮る、ゆでる、焼く。料理の盛り付け、料理を出す、ご飯をよそる、食後の片付け、食器洗いなどが続く。何気なくやってきたことも今は不可能となった。雑談をしながら、料理を家族に出すこともできない。洗濯も、洗濯機をどうするか、洗うこと、干すこと、乾燥機、片付けることも容易ではなく、タンスをどうするか、すべてが大変なことがらとなった。

 お風呂に入るのは、リハビリ・センターでは、一人で入いる。車椅子の腰掛けと同じ高さの脱衣場があるので、そこへ両手で身体を移動して、裸になる。脱衣場に続いて洗い場があり、浴槽が続く。浴槽の上部が脱衣場の面と同じ高さになっている。彼女は、洗い場にあるマットに乗り、マットを滑らせながらマットと一緒に浴槽に滑り込むようにして入る。マットは、お風呂の中で外して脱衣場に戻す。しかし、風呂場で気を失ってしまったことがあるので、この4ヶ月間はシャワーだけとなった。自宅に帰るときには、対応できるお風呂に改造することが不可欠となる。身体を洗う、頭を洗うのを洗い場で行うという健常時のころは、夢のような話である。

 元気なとき、階段は、簡単に上り下りできたが、今、階段1段分の高さは壁に変わった。10cmの家の中の段差も、大変な高さだ。自動車の乗り入れは、人の手を借りる他はない。今まで何気なく過ごしていたことが、大きな障害になった。今は家族に抱えられて異動するので、家族の休日を主に移動日にする。家族も腰痛が出て来る心配がある。

 私は、鈴木さんの代理人となって、刑事事件と民事事件の代理人となった。加害者に責任能力がない、との理由で、不起訴処分になった。また、保険会社からは加害者に責任能力がない以上、民事上の責任もない、と、損害賠償に関し支払いを拒まれた。下半身不随になっただけでも辛く悲しいのに、加害者は放任され、保険会社から賠償責任まで否定され、3重の苦しみに合うことになった。

 まず、不起訴処分は不当であり、起訴相当であるとの検察審査会への不服申立を行った。検察審査会では、不服申立が認容されたが、検察官に戻された本件は、再び不起訴処分となった。現行法では、再度の不服申立ができ、ここで、起訴相当と議決されると指定弁護士により公訴を提起されるが、当時はなかった。こうして、加害者は、刑事不処分となった。

 民事手続では、平成15年7月に受任して、平成19年1月全面勝訴判決を得たが、受任してから4年間、事故日から5年間の歳月を要した。このため鈴木さんは、身体の苦しみ以外に、法の形式的主張から苦しめられた。

 この記述は、証人尋問のため数日間をかけて聞き取った内容の半分である。私は、この記述の公開のお許しを鈴木さんから得ている。鈴木さんは、半身不随の状態というものがどのようなものかを知って欲しい。そして、民事上、刑事上の問題を知って欲しいと願っている。

2009.1.7(水)後藤正治 記