のぞみとニーチェ

 日本大学通信教育 経済学部3年のスクーリングで、私は、司法試験を決意した。しかし、定時制高校から続く豆腐屋の毎日は変わらない。自分が目指す弁護士への道と日々の生活は、余りにもかけ離れていた。こんな時に、ニーチェと出会った。ニーチェは、「星のモラル」を詩った。

星の軌道に予定されたお前には、星よ、暗黒は何のかかわりがあるか。
この時劫を貫いて、浄らかに進んでゆけ!
お前は時の不幸を離れ、遠くあらねばならぬ!
最も遥かなる世界に、お前の輝きはある。
同情は、お前に対する罪であるはずだ!
ただひとつの命令がお前には当てはまる、純粋であれと!

 そして、孤高の人生に、貫ぬく意思と行動を持て、と語った。私は、この言葉を胸に、豆腐を作り、豆腐を売り、司法書士になってからは事務所を開きながら、試験勉強をしてきた。昭和58年、豆腐屋時代の遙かなる世界であった弁護士になった。しかし、今、私は、燃え立つ意欲、ほとばしる希望を持って苦悩し、ひたすら歩む過去の自分と向き会うとたじろぐ。


 1966.7.1(金)P.M.11 記 22才
 今日も一日の仕事が終わった。P.M.7:52である。
 激しい戦いの後のむなしさ。600円という1日の成果の金(1日の豆腐売りの歩合給)を手のひらに見た時、さびしさ、かなしさ、つらさが、いや説明のつかぬ感情が、私の眼の中に水を数滴わき上がらせた。
 朝6:00より、正味13時間と52分、この間、勉強ができたのはたったの1.5時間だ。メシを食べながら本を読み、読みながらメシをくう。テレビを見るわけでない、新聞も廃除しているのに、すべての娯楽、すべての自由時間を自分の手で、自分より去らせているその結果で、今日の勉強がたったの3.5時間。余りにも、余りにもこれでは悲しいではないか。


 さらなる前進が求められ、のぞみ法律事務所を始めた。ニーチェとの出会いを意義づけ、再確認するため事務所1階にニーチェのブロンズ像、2階に「星のモラル」のレリーフを置いた。この詩を歌い、鋭く未来を見つめるニーチェ!

 過去を振り返るためでなく、私は、ニーチェと対座し、更なる人生への挑戦を自分に問う。

2009.12.21(月)後藤正治記

アロハシャツ

 九州から盗んだ車を運転して静岡県三島市まで来て、捕まった男がいた。私は、この男の国選弁護をすることになった。記録を読むと、アロハシャツも盗み、被害者に還付したとある。しかし、待てよ。彼と警察で面会した時の姿は、大きなハイビスカスが咲いたアロハシャツだった。「返して貰った。」と被害者の署名押印があるのだから、あのアロハは、別のものだろう。私は、2度目の面会の時、

『君、着ているアロハシャツ、持っていたんだね。』と聞いたところ、

「これは、盗んだものです。」という。

『被害者の方に返したんじゃあなかったの?記録には、返したことになっているんだがーー』

被告人「返したら、着る物がなくなってしまう。警察署で、そのことを被害者に話し、被害者も要らない、といってくれたので、形は被害者に返したことにして、アロハシャツは、貰ったんだ。」と言う。

彼の態度は、ふてくされて「刑務所でもどこでも行くさ」という投げやりのものだった。

 法廷で、何も正装する必要はないが、真っ赤なハイビスカスのアロハシャツは、刑事法廷に似合わない。しかも、盗んだアロハを来て、万が一、裁判官から、「そのアロハシャツは、被害にあったアロハシャツと似ているね。」と聞かれ、「これ被害品です。」と答えたら、被害弁償もされてないことが分かるし、私も弁護の仕様に困る。

 通常、犯罪事実を認めているケースでは、弁護人の活動は、被害弁償の努力を被告人側にさせることと、父や勤務先の上司や雇用主に、「毎日、仕事上、家庭生活上で指導します。」と、今後の指導監督を誓わせることが主な仕事となる。彼の親族は、九州だ。三島市まで、来てくれない。弁護の2本柱がともに消えている。

 そういえば、私には、もう若すぎる背広があった。 彼の背格好は、私と同じくらいだ。これを彼にやることにしようか。こうして背広を渡すことになった。しかし、背広だと、ワイシャツとネクタイがいるなあ。そうか、靴下も、靴も必要だ。下着もやらないと、一貫性がない。こうして一式を渡すことになった。

 彼は、赤いアロハから、すっきりした背広姿になった。法廷での態度も、捨て鉢な態度から素直な態度になった。情状証人で、指導監督を誓ってくれる人はいないし、生活の本拠は、九州で、三島から戻ることになるので被告人の言葉だけでは心許なかった。しかし、彼の神妙な態度が裁判官をして執行猶予の判決をもたらした。書記官が帰りがけに、「先生、いいことをされましたね。逮捕に続く勾留の際、私も接見に立ち会いましたが、裁判官に対する態度も悪く、ふてくされていましたので、私は、このままの態度では、実刑判決になると思っていました。」と言った。

 判決後、多くの被告人から「先生ありがとうございました。」と、感謝の言葉がでる。私は、本人の気持ちをそのまま受け取るが、手紙を貰うことはほとんどない。一度だけ、手紙を貰ったことがある。これは、イスラエルの女性を弁護した時だ。遠いイスラエルから御礼の手紙が来た。

 九州の彼からも手紙はなかった。彼は、今、どうしているんだろう。弁護士も、判決の時までで縁が切れる。それ以降、彼がどうなったか分からない。この事件、もう20年以上前になる。彼、いい父親になっているんじゃあないかと思い、良き人生を送って欲しい、と願う。この思い、裁判官、検察官にしても、同じだ。

2009.09.08(火)後藤正治記