第106~108回判例勉強会

月1回の判例研究会の第106回は、2021年5月25日開催され、判例時報2460~2463号から4判例が報告された。賃貸人の死亡時における敷金返還債務の承継主体が誰であるかに関する事例(大阪高判令和元年12月26日)、再転相続時の熟慮期間の起算日が問題となった事例(東京地判令和元年9月5日)、建物明渡執行の執行費用の請求に関する事例(最三判令和2年4月7日)、認可外保育施設に預けられた9か月の幼児が熱中症で死亡した場合に、運営法人側だけでなく市の責任が認められた事例(宇都宮地判令和2年6月3日)を取り扱った。

第107回は、2021年6月28日開催され、判例時報2464~2467号から4判例が報告された。地面師詐欺の取引に誤って関与した司法書士の責任に関する事例(最判令和2年3月6日)、祖母による未成年者の監護者指定の申立てを認めた事例(大阪高判令和2年1月16日、ただし後に最決令和3年3月29日が申立権を否定)、死者に関連する情報を相続人の「自己を本人とする保有個人情報」にあたるとした事例(大阪地判令和元年6月5日)、自分に不利な意見を述べた鑑定人に対して不法行為に基づく損害賠償請求をした事例(山口地下関支判令2年5月19日)を取り扱った。

第108回は、2021年7月27日開催され、日弁連の提供する、遺留分侵害額請求訴訟に関するe-ラーニングを受講した。遺留分侵害額請求は、金銭請求に変更されただけでなく、特別受益の範囲などその他の変更点も多々あるため、初心に帰って取り組むことが肝要と思われた。

東日本大震災 法律相談日誌4

2011(H23)年5月1日 法律相談第2日目

 6時起床、朝6時半から食事。7時に出発。今日は、雨だ。旅館の女将さんがお弁当をまた用意してくれた。おかずもいろいろ心配してくれたようだ。Wさんの運転で助かる。

 私は、疲れた感触が高い。こっそりアリナミンドリンクを飲む。体力については、みなは若いので、少々私の体力を私自身が心配する。

 今日は、Zを中心に回ることとし、午前は、E避難所に行く。ここは、避難者数235人である。しかし、ここではすでに東京や岩手の弁護士会が来ており、アンケートのみを渡すことで移動した。

 避難者数128人のF避難所に寄る。ここでは、数人が座っているが、家も流され船もやられ、魚棚も流された。悲惨な状況を聞く。相談者には、生きる気力がない。法律相談まで、たどり着かない。 

 避難者数86人のG避難所に行く。ここは、小さなところなので、余り弁護士は行っていないと思っていったが、会長が頑なな方で、受け付けない。避難所の方は、話したい様子を示している人も見受けられるが、受け付けてくれなかった。私は、だいぶ雑談をして和んで頂くようにしたが、失礼にあたるので、引き返すことにした。ここで、まだ、避難所の方々にほとんど差し上げていなかったサンオレンジを3箱か4箱、全部を見舞いに置いていった。相談に応じてくれようが、応じてくれなかろうが、誰に差し上げようと、意義ある見舞いになる。

 我々は、ここの桜の木の下で昼食を取った。惨状とは裏腹に、桜の花は、満開で、タンポポが咲き、ツクシンボが芽を出していた。

 午後は、大きな施設はすでに弁護士会の訪問があるだろうとの考えで、弁護士会が寄らないであろう小さな避難所を訪問することになった。H避難所は、避難者数78人であった。

 ここからさらに、I避難所に向かったところ、責任者の方々が、ちょうど食事の時間なので、弁護士のみなさんも食事をしていないだろうから食事をしろという。何度も丁寧に辞退したが、「食事をしている最中に相談ができないだろう、これから若い人たちも帰ってくるので、相談を受ける人が増えるだろう」、と話された。これには恐縮してしまった。硬い辞退は、本筋のようでいて、むしろ被災者の方々と心を通わせることはできない。形式的な対応よりも共に食事をいただきながら雑談をして、多くの方々と気心を知ることができる。夕食をいただくことにした。私の承諾を車で待機していた隊員も驚いたが、6人で、夕食をいただくことにした。沢庵と味噌汁、合掌して感謝しながら頂いた。

 食事をしてから話を伺うことになった。みな、初めての弁護士の訪問と相談なので、熱心に対応してくれた。私も正座して丁寧に深く挨拶をした。避難所には、夕食に合わせて帰ってくる人がいた。夜の相談は、労働している現役の人たちが帰ってくるので、時宜に適していた。相談者の何人かは、事態が治った後、また、津波に襲われた場所に戻りたい、と回答し、私たちはその言葉に驚いた。帰りは、みなで、玄関、そして、車の出発まで送ってくれた。ここでの法律相談は、若い方々を含め大勢の方々から話を伺うことができ、相談の意味が深かった。

 19時頃の出発となった。時間的に海援隊の集合場所である食事場所に間に合わない。海援隊Nさんへ報告した。今から避難所を出ること、集合場所には時間的に到着できないこと、避難場所において、勧められるまま申し訳ない思いで夕食を避難所の方々といただいたこと、夜になり大勢の方々がお帰りになり、昼間の相談に比べて充実した質問、回答ができたこと、隊員のみなさんによろしくお伝えください。と話した。明日、3日目は、法律相談終了後の報告会はなく、自由散会であるので、もう会うことはない。海援隊参加のみなさんとは、初日の1日のみの短時間の意見交換しかできなかった。被災者の皆様のお役に、少しでも立ちたいという思いは同じだ。みな溌剌としていた。1日だけの報告会参加は、残念であった。

 もう当たりは、真っ暗である。街路に電灯がない、店の明かりもない。道の両脇は、がれきが続き、旅館に向かうナビゲーターで示す道路は、そこかしこで通行止めである。止まるたびに、橋がない、道路がない、目印となる建物や施設がない。車を停めて、道を聞こうにも人家はすべて流されてしまっている。私がナビ役となった。声に出さないが、ここで余震の大きいのが発生して、津波の恐れとなると大変なことになる、と激しい緊張を憶えた。

 若いN君、H君、T君に今回の活動の声をかけたのは私である。T君夫妻は結婚したばかりで、Wさんも若い。よく賛同して、この法律相談に参加したものと感心したが、事故や津波に遭遇しては、申し訳ない。高台へ逃げるための山の存在を暗い中から見つけるとホッとした。1台目の私に続いて後ろから走るT車両も不安な思いで、後続していることだろう。進行方向を変え、大きく迂回して走行する形になる。向きを変えるたびに、ナビの帰宅時刻は、9時30分から10時になり、10時から10時半、10時半から11時と変わっていく。30分もうろうろと本線に戻るべく走っていると何とか、流されずに残った橋を渡ることができ、帰り道の本線に戻った。

 家内へのメールは、「いま、帰るところ。避難所を5ヶ所回り4人で30人以上の方から話を聞いた。家を流され、船を流され、ホタテ貝の養殖棚を失い大変な状況で言葉を失った。9時半頃に旅館に着くだろう。ここで、お疲れ様と一杯やるんだ。」

 こうして、9時30分に帰省。12時10分就寝。

2011.5.1(日)後藤正治 記

第103~105回判例研究会

月1回の判例研究会の第103回は、2021年2月26日開催され、判例時報2455~2458号から4判例が報告された。労働契約に関する事例(福岡地判令和2年3月17日)、訴訟委任の有効性が問題となった事例(大阪高判令和2年3月26日)、子の返還に関する事例(最決令和2年4月16日)、適格消費者団体による不当条項に関する事例(さいたま地判令和2年2月5日)を取り扱った。

第104回は、2021年3月19日開催され、日弁連の提供する、新型コロナウイルス問題に関する企業向け相談に関するe-ラーニングを受講した。新型コロナ以外にも通用する法的諸問題を検討する機会となった。

第105回は、2021年4月22日開催され、日弁連の提供する、民事信託(家族信託)に関するe-ラーニングを受講した。紛争予防のため、信託を活用していくべき場面が増えていくものと思われるが、様々な視点から入念に設計しなければ意に沿わない信託となるおそれがあり、注意を要する。

第102回判例研究会

月1回の判例研究会の第102回は、2021年1月27日開催され、判例時報2450~2454号から4判例が報告された。

1事例目は、被相続人の死亡を知って3か月以内に子3人が相続放棄をしようと考えたが、誤って1人だけが3人分の収入印紙を貼付して申立てを行い、3か月経過後に市の職員から各自の申立てが必要であることを教示されて残る2名が相続放棄の申述をした事例(東京高決令和1年11月25日)。原審は期間経過後の申立てであるとして不適法却下したのに対し、高裁は特別の事情があるとして市の職員の教示から3か月以内に申し立てればよいとした。本件は家裁の申立時に取下げを促されていたが、高裁で争うことを前提に申立てを完遂することも重要である。

2事例目は、長谷川式11点でグループホームに入居する87歳女性について、長女による財産管理が不適切であるとして長男が成年後見を申し立てたところ、本人が成年後見開始を拒否する直筆の手紙を裁判所に送付して調査官調査・鑑定を拒否した事例(大阪高決令和1年9月4日)。原審は診断書の信用性に疑義があるため鑑定が必要だが鑑定を実施できないため、申立てを却下したが、高裁は、診断書の疑義は誤記にすぎないと認められることや、経済的合理性のない高リスク投資を開始しており直筆の手紙も本人の意思に基づくものか疑わしいこと等を考慮し、鑑定をするまでもなく後見開始の常況にあるとした。実務では、一人の相続人に完全に囲われてしまい、診断書の取得すら覚束ないことが多々あるが、参考になるケースである。

3事例目は、民事裁判では第1回期日において答弁せず欠席した場合、訴状記載の事実は争いないものとみなして勝訴判決をすることが法律上可能であるが、被告が複数いる事件で、相被告から反論の答弁がなされているのに被告のうち1社だけ欠席した場合に、その被告についてのみ裁判分離・勝訴判決をすることが違法とされた事例(東京高判令和1年11月7日)。

4事例目は、婚費分担審判の申立後、決定前に当事者が離婚した場合に、婚費請求権が存続すると判断した事例(最決令和2年1月23日)。

東日本大震災 法律相談日誌3

2011(H23)年4月30日 法律相談第1日目(後半)

 Yは、津波にのみこまれ、悲惨な状況だ。A避難所、B避難所の近くは、津波の痕跡があまり見られないので、津波がどのようにきたのか、不思議な感じもしたが、Yは、違った。

 山並みを抜けて、海が見える被災地に入っていく。道路の脇にある崖地や平地と接する山を見ると、この斜面の木々に赤、青、白、茶色など多様な色の紙、プラスチック、板などがひっかかっている。この位置は、自動車の高さの6〜7倍以上もある場所である。津波によるいろいろなものが打ち上げられている。道路を走っていくと、両脇の道路上の各地に津波予想区域が設定され、標識が設置されている。10m、場所により20mの高さではないかと思うほどの位置に設置されている。このような高い位置が津波の想定高さかと驚くと共に、この位置より同じか、少し高い位置に津波の痕跡が残っていた。津波の被害は、やはり歴史を繙き、津波の高さを知ることだと思った。テレビでは放送されない状況やテレビでは伝達できない肌で感じる埃や匂いなど悲惨さが凄い。

 次に向かったD避難所には津波で家族も家も職も失った二人がいた。二人とも、何も考えられないという状況であった。法律相談以前である。放心状態、虚脱状態を減じてやることができるかもしれないと思い、地震と津波の状況や苦悩を聞いてあげるしかできなかった。

 帰りの時間となった。集合場所の食事場所をナビに設定するためにパチンコ屋に寄ったところ、T弁護士車両が止まっていた。T弁護士が「パチンコ客が大勢だ。一杯だ。」と言う。私もトイレ名目で中に入った。6列くらいのパチンコ台通路がある。パチンコ台が向かい合って並んでいるので、椅子も通路の両サイドに並んでいる。椅子に座った客数はほぼ満席である。各列を見たところ80%位が埋まっていた。避難所には、人はほとんどいないので、法律相談は、手応えを感じることができなかったが、ここには大勢の人が集まっている。法律相談は、ここでやるべきなのか。一方で、津波に困り、他方で、パチンコに興ずる。津波の大被害からまだ50日である。1回5000円〜10000円使うこの遊びに、どのような考えの下で行くのか、としばし口が尖った。私は、非難派だったが、WさんとH弁護士は、弁護派だ。「仕事もない。テレビも付かない。遊び場所やストレスの発散場所がない。悲嘆にくれる状況下、パチンコをやって時間の過ぎるのを待つしかないときがある。なんで、悪いんだ。」それもある。数人がいるといろいろ意見が出る。ありがたいことだ。

 1日目の相談が終わり、海援隊15名が自己紹介と反省会を開く目的で、中華料理店で落ち合うことになっていた。午後8時ころ着いた。自己チーム以外は、初対面である。みな自己紹介となった。それぞれ、個性派の情熱ある弁護士である。九州から来た女性弁護士は、ボス弁に黙って今日、ここへ来た。九州から羽田へ、そして、羽田からバスを乗り継いで来たという。感嘆した。我々は、自動車で、6人できた。14時間かかったが、福岡からの遠さと時間に比べると容易なものだ。そして、一人での行動は、精神的負担が我々以上に大きい。これを彼女のエネルギーと行動力で乗り越えてきたことに頭が下がった。

 テレビ局「ガイアの夜明け」のマイクやテレビカメラは苦手である。明日もあるので、長時間の打ち合わせができない。もっと、隊員たちの思いを聞きたかった。

 9時40分頃、旅館に帰着。帰ってから喉がいがらっぽい。風邪以上の原因を心配して、うがいをしっかり、手も洗う。お疲れさん会を開く。日本酒を飲み、うがい代わりとする。ここで、12時就寝。

2011.4.30(土)後藤正治 記