東日本大震災 法律相談日誌6

被災地 法律相談報告

平成23年6月18日

 4月29日から5月3日まで、弁護士会の活動とは別に、被災地の皆さまへの法律問題調査と法律相談で行ってきました。体力が持つだろうか、との不安を抱えながら、3市町村の避難所計10箇所ほどを訪問してきました。

 津波の被害は、このように凄いものか、

 町すべてが根こそぎ奪われた惨状は、傷ましいものでした。

 涙一杯ためられた被災者の方の相談を受け「最近、やっと涙をだせるようになりました」、と言う中で、話を伺いましたが、立法で解決していかなければ、到底、対応できるものではないことを痛感しました。

 我々は何ができるか、何をすべきかを問われた毎日でした。

  1.  避難場所には、老人、身障者、心に深く傷を負って精神的に立ち上がれない方、その他の事情で避難場所にいる方など限定されているように感じました。経済的活動の中心になる方、青年、壮年の方々は、仕事探しや仕事に行き、生きるために昼間出かけられており、昼間避難場所に行っても、弁護士の法律相談は空回りの印象でした。
     某市では、避難場所の方に夕食を勧められ、一緒に食事をして、食事後に、7時まで、話を聞きましたが、地方では、弁護士に相談するというのは、敷居が高く、我々が、席に行く、一緒に食事するなど、心の壁を取り払わないとなかなか、相談は、多くない状況です。相談時間は、夕方、または、夜間、青年、壮年の方々が帰ってきた後に話を聞いた方が適切な弁護士としての役割を果たせるものと感じました。
  2.  また、椅子と机を用意して、相談される方を待つというのでは、なかなか相談しにくい。地方の方々には、弁護士には縁遠い存在です。布団や僅かな生活用品が置かれているスペースまで、出向き、相談を受ける気持が必要です。被害者の方の前に正座してお見舞いを告げ、被災状況を聞き、給付金の内容と手続き、そして、相談があれば、相談を受けます、と話すことが大切、と思います。
  3.  通常の法律相談では、相談者が法律相談案件を抱えていることを意識して、これを相談し、我々が応じますが、ここでは違います。被災者は、どうしていいかわからない、聞くことがわからない。どんな法律問題を抱えているかも分からない失意の状態です。
     我々は、見舞いを述べ、静岡でも東海大震災の恐れを告げられて35年も経つことを話し、ご家族や財産の安否を聞いていく中で、我々が、ここに法的問題がある、アドバイスをするところはここにあると考え、弁護士として話をしていく考えと態度が必要です。被災者の方が抱えている問題を一緒に探して見つけていく、というふうに、通常の法律相談と全く異なる性格のものであることを認識してほしいと思います。

1、心のケア

2、災害対策法の内容と手続き

3、立法問題である債権放棄、再生と換地処分

4、具体的な法律問題

でした。

2011.6.18(土)後藤正治 記

東日本大震災 法律相談日誌5

2011(H23)年5月2日 法律相談第3日目

 今日は、最終日である。集合場所に6時30分に到着し、車5台ほどで列をなしてαに向かう。αは、まだ寒く、春の訪れは遅い。桜の花のつぼみは、まだ、硬い。

 一路、βの仮庁舎に向かう。βに入った。β、ここはγの近くのようだ。ここの惨状も、Zと同じだ。しかし、今日は、突風がある。いつもこうなのだろうか。砂埃が激しい。ときどき、竜巻のような渦巻く突風が自動車の前に立ち上がる。この渦の中に自動車は、走り入っていくが、自動車が持ち上げられるのではないかの気持ちがよぎる。「全員、防塵マスクを付けよう」と言う互いの言葉を待たずに、全員防塵マスクを付け出した。それほど、砂塵と荒廃した惨状であり、さながら戦場──いや、戦場は、これよりもっとひどい内容だろうと打ち消した。

 建物は、他の被災地と違い、焼けただれている。鉄骨が錆ついている。自動車も瓦礫の中で、ひっくり返って車輪部を上げている。あるいは、自動車の原形をとどめず、僅かに車輪部から自動車だろうと思える。これらの残骸は、塗装が落ち鉄板がむき出しとなって、赤錆に染まっている。他では、木材の残骸と一緒になっているが、ここでは、赤茶けた鉄骨の残骸がむき出しに転がっている。この残骸の間を進むと、突風が来る。砂埃が舞い、トタン板が飛びはね、ビニールの切れ端が舞い上がる。ときどき焼けただれ、煤にまみれた建物が連なる。テレビで見た津波襲来後の火災によるものではないかと思う。自衛隊の隊員が残骸を除去し、トラックの出入りを誘導し、軍事車両、ユンボが行き交う。戦場さながらの光景である。

 β、ここは庁舎が津波で2階まで浸水し、町長ら職員の4分の1の方々が犠牲となった。役場は、仮に設置された2階建てのプレハブ6棟だった。静岡隊は、δ小学校に設置されていたJ避難所とこの近隣の避難場所の担当となった。δ小学校に向かった。許可を得て校庭の一角に自動車を置き、J避難所に向かう。校庭では、小学生が体育の授業を受けていた。校庭の一角には、郵便局が自動車出張郵便局を配備していた。挨拶がてら、職員に郵便の利用状況を聞きながら、J避難所の場所と責任者に会うにはどこへ行けばよいかを聞いたところ、J避難所は、小学校が始まってから別の地に移ったとのことだった。場所を教えてもらうが、標識になる建物はすべて流されているので、何を基準に探していけばよいか困った。J避難所は、旧δ中体育館へ移転していた。旧δ中学校は、「45号線のδ1丁目バス停のそばにあります。」とあった。

 最後の日の昼食は、旅館へポットを返すことができない行程なので、おにぎりとなった。避難場所、旧δ中体育館は、強風が吹き荒れていた。この駐車場の車の中で食べた。

 法律相談は、いつものように被災者の足元へ行き、当方から話を聞くように進めた。被災者の方から地震保険を聞かれた。〇〇火災だと思うが、書類は全て流されて資料がない。どうしたらよいか、である。確かに、書類は流出してしまう。調べたところ、下記の通りであった。

 〇〇火災の連絡先は、被害の連絡先(24時間・365日)

 建物(地震保険)やケガ等の事故 0120-******

地震保険の契約をどの保険会社としているか不明の場合などに対応しているのは、下記であった。

 社団法人日本損害保険協会 地震保険契約会社照会センター

 (月〜金(祝日は除く)9:00〜17:00) 0120-501331

 午後2時30分、ε小学校へ向かった。K避難所には、テントが張ってあり、ここに役員らしき人達が数人見える。私は、深く頭を垂れ、見舞いを告げると共に、静岡から来た弁護士であること、事情を聞きたいこと、そして、もし希望があれば、法律相談を受けたい、との話をしたところ、「すでに弁護士が昨日来たので、いらない。そんなに入れ替わり立ち替わり来て貰わなくて良い。」とのことだった。役員らしき人達は、「そこで、聞きたいが、昨日、弁護士が来て、聞いた者が話していた。ここで、債務は免除されるので、支払わなくて良い、と言っていた。相談を受けた人は、随分喜んでいたが、私は、おかしい、と思う。」と、剣幕が厳しい。私は、「もっともです。おっしゃるとおり、原則どおり、債務は残ります。ですが、多くの被災者は、家もなくなり、債務だけが残るのでは生活ができない。私たち弁護士は、この苦境を乗り越えるには、債務は免除されるべきであり、それを法律上、制定されるよう運動する所存である、この法律はまだ制定されていない。すでに相談された弁護士も、そのように言っているものと思います。」と説明したところ、「そうだろう。それならば、納得できる。明日お願いできないでしょうか、明日であれば、相談を受ける体制ができるので、是非、そうしてほしい。」と、柔和な対応となった。残念ながら、今日までで、明日は、帰る予定なので、今日、相談に切り替えられないでしょうか。と話したが、今日は、調整がつかない、とのことで断念した。

 最後の避難所への訪問の後、T夫妻と別れた。二人は、奥さんの友人のところへ訪ねて行くとのことであった。H弁護士、N弁護士、Wさん、後藤正治の4人は、岩手県最後の宿泊であるζ市のη温泉にたどり着いた。ここまで、アクシデント、怪我もなく、無事にたどり着いたことにホッとするとともに感謝した。

 η温泉は、3つの館に別れていた。立派な旅館施設の中に湯治部も設け、併設していることに驚く。自炊部には、被災で避難されている方々がいた。旅館内で、我々がすれ違う方々に会釈をして、相手の方を優先して立ち止まっていると、我々の弁護士バッジに気がついて、話しかけてきた。ここでも、立ち姿での法律相談となった。涙一杯ためられた被災者の方の「最近、やっと涙をだせるようになりました」、と言う中で、話を伺ったが、財産のみならず、家族を失って失意の中にいる方々が負債で苦しむことを見逃すことはできない。立法で解決していかなければ、到底、対応できるものではないことを痛感した。

2011.5.2(月)後藤正治 記

ゴルフ会員権預託金返還請求事件について

重点取扱分野に、ゴルフ会員権預託金返還請求事件を追記しました。

静岡県は、全国でも比較的、ゴルフ場の多い県ですが、当事務所も、ゴルフ会員権の預託金返還請求事件の取り扱いが比較的、多くなっております。最初にご依頼頂いた案件は、苦労の末に無事、全額回収に至りました。以後、多数の方からご相談、ご依頼を頂き、ノウハウを活用、発展させて取り組んでいます。この種の事件は、預託から長期間が経過しており、その間にゴルフ場の運営母体の民事再生等があったり、償還期限延長決議があったりして、一筋縄ではいきません。まずは法律相談されることをお勧めします。

東日本大震災 法律相談日誌4

2011(H23)年5月1日 法律相談第2日目

 6時起床、朝6時半から食事。7時に出発。今日は、雨だ。旅館の女将さんがお弁当をまた用意してくれた。おかずもいろいろ心配してくれたようだ。Wさんの運転で助かる。

 私は、疲れた感触が高い。こっそりアリナミンドリンクを飲む。体力については、みなは若いので、少々私の体力を私自身が心配する。

 今日は、Zを中心に回ることとし、午前は、E避難所に行く。ここは、避難者数235人である。しかし、ここではすでに東京や岩手の弁護士会が来ており、アンケートのみを渡すことで移動した。

 避難者数128人のF避難所に寄る。ここでは、数人が座っているが、家も流され船もやられ、魚棚も流された。悲惨な状況を聞く。相談者には、生きる気力がない。法律相談まで、たどり着かない。 

 避難者数86人のG避難所に行く。ここは、小さなところなので、余り弁護士は行っていないと思っていったが、会長が頑なな方で、受け付けない。避難所の方は、話したい様子を示している人も見受けられるが、受け付けてくれなかった。私は、だいぶ雑談をして和んで頂くようにしたが、失礼にあたるので、引き返すことにした。ここで、まだ、避難所の方々にほとんど差し上げていなかったサンオレンジを3箱か4箱、全部を見舞いに置いていった。相談に応じてくれようが、応じてくれなかろうが、誰に差し上げようと、意義ある見舞いになる。

 我々は、ここの桜の木の下で昼食を取った。惨状とは裏腹に、桜の花は、満開で、タンポポが咲き、ツクシンボが芽を出していた。

 午後は、大きな施設はすでに弁護士会の訪問があるだろうとの考えで、弁護士会が寄らないであろう小さな避難所を訪問することになった。H避難所は、避難者数78人であった。

 ここからさらに、I避難所に向かったところ、責任者の方々が、ちょうど食事の時間なので、弁護士のみなさんも食事をしていないだろうから食事をしろという。何度も丁寧に辞退したが、「食事をしている最中に相談ができないだろう、これから若い人たちも帰ってくるので、相談を受ける人が増えるだろう」、と話された。これには恐縮してしまった。硬い辞退は、本筋のようでいて、むしろ被災者の方々と心を通わせることはできない。形式的な対応よりも共に食事をいただきながら雑談をして、多くの方々と気心を知ることができる。夕食をいただくことにした。私の承諾を車で待機していた隊員も驚いたが、6人で、夕食をいただくことにした。沢庵と味噌汁、合掌して感謝しながら頂いた。

 食事をしてから話を伺うことになった。みな、初めての弁護士の訪問と相談なので、熱心に対応してくれた。私も正座して丁寧に深く挨拶をした。避難所には、夕食に合わせて帰ってくる人がいた。夜の相談は、労働している現役の人たちが帰ってくるので、時宜に適していた。相談者の何人かは、事態が治った後、また、津波に襲われた場所に戻りたい、と回答し、私たちはその言葉に驚いた。帰りは、みなで、玄関、そして、車の出発まで送ってくれた。ここでの法律相談は、若い方々を含め大勢の方々から話を伺うことができ、相談の意味が深かった。

 19時頃の出発となった。時間的に海援隊の集合場所である食事場所に間に合わない。海援隊Nさんへ報告した。今から避難所を出ること、集合場所には時間的に到着できないこと、避難場所において、勧められるまま申し訳ない思いで夕食を避難所の方々といただいたこと、夜になり大勢の方々がお帰りになり、昼間の相談に比べて充実した質問、回答ができたこと、隊員のみなさんによろしくお伝えください。と話した。明日、3日目は、法律相談終了後の報告会はなく、自由散会であるので、もう会うことはない。海援隊参加のみなさんとは、初日の1日のみの短時間の意見交換しかできなかった。被災者の皆様のお役に、少しでも立ちたいという思いは同じだ。みな溌剌としていた。1日だけの報告会参加は、残念であった。

 もう当たりは、真っ暗である。街路に電灯がない、店の明かりもない。道の両脇は、がれきが続き、旅館に向かうナビゲーターで示す道路は、そこかしこで通行止めである。止まるたびに、橋がない、道路がない、目印となる建物や施設がない。車を停めて、道を聞こうにも人家はすべて流されてしまっている。私がナビ役となった。声に出さないが、ここで余震の大きいのが発生して、津波の恐れとなると大変なことになる、と激しい緊張を憶えた。

 若いN君、H君、T君に今回の活動の声をかけたのは私である。T君夫妻は結婚したばかりで、Wさんも若い。よく賛同して、この法律相談に参加したものと感心したが、事故や津波に遭遇しては、申し訳ない。高台へ逃げるための山の存在を暗い中から見つけるとホッとした。1台目の私に続いて後ろから走るT車両も不安な思いで、後続していることだろう。進行方向を変え、大きく迂回して走行する形になる。向きを変えるたびに、ナビの帰宅時刻は、9時30分から10時になり、10時から10時半、10時半から11時と変わっていく。30分もうろうろと本線に戻るべく走っていると何とか、流されずに残った橋を渡ることができ、帰り道の本線に戻った。

 家内へのメールは、「いま、帰るところ。避難所を5ヶ所回り4人で30人以上の方から話を聞いた。家を流され、船を流され、ホタテ貝の養殖棚を失い大変な状況で言葉を失った。9時半頃に旅館に着くだろう。ここで、お疲れ様と一杯やるんだ。」

 こうして、9時30分に帰省。12時10分就寝。

2011.5.1(日)後藤正治 記

東日本大震災 法律相談日誌3

2011(H23)年4月30日 法律相談第1日目(後半)

 Yは、津波にのみこまれ、悲惨な状況だ。A避難所、B避難所の近くは、津波の痕跡があまり見られないので、津波がどのようにきたのか、不思議な感じもしたが、Yは、違った。

 山並みを抜けて、海が見える被災地に入っていく。道路の脇にある崖地や平地と接する山を見ると、この斜面の木々に赤、青、白、茶色など多様な色の紙、プラスチック、板などがひっかかっている。この位置は、自動車の高さの6〜7倍以上もある場所である。津波によるいろいろなものが打ち上げられている。道路を走っていくと、両脇の道路上の各地に津波予想区域が設定され、標識が設置されている。10m、場所により20mの高さではないかと思うほどの位置に設置されている。このような高い位置が津波の想定高さかと驚くと共に、この位置より同じか、少し高い位置に津波の痕跡が残っていた。津波の被害は、やはり歴史を繙き、津波の高さを知ることだと思った。テレビでは放送されない状況やテレビでは伝達できない肌で感じる埃や匂いなど悲惨さが凄い。

 次に向かったD避難所には津波で家族も家も職も失った二人がいた。二人とも、何も考えられないという状況であった。法律相談以前である。放心状態、虚脱状態を減じてやることができるかもしれないと思い、地震と津波の状況や苦悩を聞いてあげるしかできなかった。

 帰りの時間となった。集合場所の食事場所をナビに設定するためにパチンコ屋に寄ったところ、T弁護士車両が止まっていた。T弁護士が「パチンコ客が大勢だ。一杯だ。」と言う。私もトイレ名目で中に入った。6列くらいのパチンコ台通路がある。パチンコ台が向かい合って並んでいるので、椅子も通路の両サイドに並んでいる。椅子に座った客数はほぼ満席である。各列を見たところ80%位が埋まっていた。避難所には、人はほとんどいないので、法律相談は、手応えを感じることができなかったが、ここには大勢の人が集まっている。法律相談は、ここでやるべきなのか。一方で、津波に困り、他方で、パチンコに興ずる。津波の大被害からまだ50日である。1回5000円〜10000円使うこの遊びに、どのような考えの下で行くのか、としばし口が尖った。私は、非難派だったが、WさんとH弁護士は、弁護派だ。「仕事もない。テレビも付かない。遊び場所やストレスの発散場所がない。悲嘆にくれる状況下、パチンコをやって時間の過ぎるのを待つしかないときがある。なんで、悪いんだ。」それもある。数人がいるといろいろ意見が出る。ありがたいことだ。

 1日目の相談が終わり、海援隊15名が自己紹介と反省会を開く目的で、中華料理店で落ち合うことになっていた。午後8時ころ着いた。自己チーム以外は、初対面である。みな自己紹介となった。それぞれ、個性派の情熱ある弁護士である。九州から来た女性弁護士は、ボス弁に黙って今日、ここへ来た。九州から羽田へ、そして、羽田からバスを乗り継いで来たという。感嘆した。我々は、自動車で、6人できた。14時間かかったが、福岡からの遠さと時間に比べると容易なものだ。そして、一人での行動は、精神的負担が我々以上に大きい。これを彼女のエネルギーと行動力で乗り越えてきたことに頭が下がった。

 テレビ局「ガイアの夜明け」のマイクやテレビカメラは苦手である。明日もあるので、長時間の打ち合わせができない。もっと、隊員たちの思いを聞きたかった。

 9時40分頃、旅館に帰着。帰ってから喉がいがらっぽい。風邪以上の原因を心配して、うがいをしっかり、手も洗う。お疲れさん会を開く。日本酒を飲み、うがい代わりとする。ここで、12時就寝。

2011.4.30(土)後藤正治 記