東日本大震災 法律相談日誌2

2011(H23)年4月30日 法律相談第1日目(前半)

 5時半に目覚めた。出発前日の4月28日まで、沼津の事務所で仕事に追われていたため必要な道具をどの荷物に入れたか、あまり確認しないで出かけてきた。バックの中身を確認したところ、わからないこと多数ある。

 携帯電話の充電用ソケットがなかった。携帯電話の補助電池がポケットに入っていた。レンタカーにシガーソケットはないが、パワーアウトソケットはあった。ここに差し込めるのは、ホンダ規格で一般のものは使えない、ということだった。しかし、これは、おかしいと思っていたが、やはり一般的なシガーソケットだ。シガーソケットから一般電気機器の差込口がある接続機器を初めてX市役所で試してみることにした。

 6時30分に食事し、6時55分に旅館を出た。弁護士海援隊の集合時間は、出発前日、7時25分に変更された。午前6時30分から55分ほど遅れた時間に変更されたのは、3月11日から50日経過し、道路網などの整備が若干進み、目的地に向かう時間の短縮ができそうだ、ということが理由だった。集合場所は、Jホテルである。ここには、7時20分に到着した。参加人数は、東京6、横浜1、大阪1、九州1、静岡隊6名の15人だった。海援隊は3組のチームに分かれ、それぞれのチームは、別々の避難場所を巡る。静岡隊6名は、静岡隊だけで1チームを構成し、2台の自動車で回る。東京テレビの「ガイアの夜明け」という番組のクルーがきていた。これからクルーがN隊長チームの1台に5日間、密着取材とのことだ。この「ガイアの夜明け」は、後日、放映されたことを知った。

 3チームは、X市役所に着いた。市役所は、高台にあった。市役所の周りには、津波の悲惨さを知らないかのように桜の花が咲いていた。「のどかな春をつげるかのようだ。」しかし、車のドアを開けると、臭気が駐車場全体を覆っていた。「これがヘドロの臭いか、何の異臭なのだろうか。」これから向かう場所は、被災地に近づくことになるので、更に臭気が激しくなっていくのか、と案じた。静岡隊の午前の担当は、A避難所とB避難所であった。19時に集合ということで、それぞれのチームに分かれて散会した。

 A避難所では、多勢のボランティアが炊き出し用の野菜を洗い、切っていた。臭気はなかった。津波の惨状は余りなく、被災場所とは思えない気がした。責任者にお会いした。静岡から来た弁護士であること、事情を伺い法律相談をしたいご希望であれば、受けたいことを伝えた。

 避難されている方々は、1Fと2Fに分かれているとのことだった。T弁護士とN弁護士は、1Fに、H弁護士と私は2Fに向かった。2階の避難所は、80畳くらいの広さの和室だった。入り口で挨拶をした。しかし、老人が3人だけであった。どうしてなんだろうか。私は、Sさんと言う方と話した。しかし、88歳でしかも耳が悪い、方言も強い方なので3分の1しかわからない。耳を近づけ、くり返しくり返し会話を確認しながら、伺った。お住まいの家は、近い、家に行けば片づけをしている家族がいるから、そこへ行けばよいとのことだった。生活を支えているのは、若い人達である。お住まいに尋ねることにした。金融機関の前の家とのことであった。A避難所から間近であった。Sさんの家に行ったが、誰もいない。中に入っていった。家の中は、泥で埋まっていた。しかし、人はいない。津波は、この家の1.5mの高さまで、来ていた。この高さは、家族の生命にも影響がなかったかと思われた。

 Sさんを訪ねるため、近所の家を訪ねSさんの家はどこか、を聞いたところ、この家では、家の改装をやっていた。家の構えは良くKさんという方だった。Wさんは、彫刻家の立場で仏像などの木像の損害や修理を聞いていた。彼の相談は、修理を受けることまで行くようだった。

 次のB避難所に向かった。B避難所は、要塞のような頑丈な作りで、高台に作られていた。所長にお会いした。ご苦労が多いことを伺った。ここは、広く、避難者は、1Fと2Fに分かれていた。

 まず、お話を伺ったのは、足の悪い方だった。足が悪いので、正座できないと謝罪された。話を進めると、すぐにアナウンスがあった。「支援の名目で、銀行口座番号を聞いたりするとのことで注意してください。」とのことであった。何か、私たちのことを言われているようなまずいタイミングであった。しかし、続いて「弁護士の方が来られたので、相談があれば、相談されて下さい。」とのアナウンスがあった。ホッとはするが、このような悲惨な状態下、詐欺行為を行う奴が出向いてくるのか、と非道さに憤りを感じる。掲示板があった。ここには、安否を問うものや多数の連絡事項の紙が貼られていた。

 相談者の二人目は、夫婦であった。自動2輪の販売をしている人で、7人家族。5名の息子夫婦は、仮住宅の入居ができた。しかし、自分たちは仮住宅へ移転できないので、避難所でいるしかない。3人目の方は、奥さんが中国の吉林省の人だった。ローンの支払いがあるが、困った。この支払いは、止めることと回答したが、なくなるわけではない、と話が続いた。最終的には、立法化である。4人目の方は、奥さん、息子、娘、子供の5人だった。話をするのがいやであるとのことのようだった。地震と津波で放心して、法律相談をするまでもなく、話す気力もない。相談するというのは、解決に向かう気持ちがあることであり、激しいショックでボーッとしてしまっている状況からの脱出がまず不可欠なのである。

 C避難所に向かった。しかし、東京弁護士会3会が来ていたとのことでアンケートを頼んで帰った。

 その後、どこへ行くか、1班、2班を電話で聞き、Yへ向かうことにした。思いのほか、遠く16kmあった。道を間違えたりしながら、たどり着いた。

東日本大震災 法律相談日誌1

2011年(H23)4月29日

 集合時間は、朝7時だった。私は、6時35分ころ家を出て、のぞみ事務所に6時55分ころに着いた。T弁護士が奥さんとフォルクスワーゲンで既に到着していた。私と同時くらいに、彫刻家のWさんがミニローバーで着いた。N弁護士はまだ来ていなかった。私が事務所の鍵を開け、風除室のドアを開けようとした時、N君が飛び込んできた。私は、ポケットに免許証がないことに気が付き、急ぎ事務所のテーブルにカメラと一緒に置いてあった免許証を持った。H弁護士も着いた。総勢6人、全員集合した。

 この企画は、津波被害に遭われた被災者の方々に何かできないか、と言う素朴なものだ。静岡県弁護士会に問い合わせたが、福島、仙台、岩手の各弁護士会は、静岡県弁護士会の派遣をまだ受け入れていない、とのことだった。多くの弁護士が、日弁連経由で派遣を望んでいるが、まだ、対応できていない。4月19日、日弁連からのぞみ事務所へ「静岡県弁護士会を受け入れる体勢はできていない、もう暫く待って欲しい。」とのファックスが届いた。福島、仙台、岩手の各弁護士会へ直接、問い合わせたところ、「日弁連経由で行って欲しい」とのことだった。しかし、日弁連では、月日を含めその企画は、定まっていない。

 我々も、ゴールデンウイークしか、長期の時間がとれない。被災地の惨状を見ると、ゴールデンウイークに座していること、遊んでいることはできない。道は、弁護士海援隊の募集に応じることである。海援隊は、N弁護士が提案した現地の法律相談実施と現状調査、居住地や仕事場の喪失に加えローンが残ることへの債務免除の法制化の活動である。N弁護士の問題意識の高さと行動力には驚嘆する。しかし、この参加にも課題があった。

 海援隊の「岩手県沿岸部出張相談」募集要項は、下記のとおりである。

 1 交通手段、宿泊場所、食料は、すべて自分で手配する。

 2 被災者支援の法律相談に必要な知識をMLなどで取得し予め勉強する。

 3 事務用品その他必要道具、配布チラシ等は自分で用意する。

 4 被災地での法律相談が思うようにできなかったとしても文句を言わない。

 5 時期 4月30日〜5月2日
   毎日、午前6時30分集合
   終了、大体午後7〜8時

 この要項は、了解した。しかし、宿泊場所を決めることができるか。毎朝6時半の集合になると朝5時起きになるが、可能か。被災地に入ることはできるか。ガソリンは購入できるか。昼食は、被災地でどのように獲得するか。タイヤがパンクした場合は、どのようにするか。若い弁護士は、体力があるが、私は、付いて行けるのか。若い弁護士達が行って、ケガなどをする可能性がある。「後藤さん、無理をしすぎた。無謀だったね。」と言われることは必定である。余震もあり得る。無事に帰ってくるにはどうしたらよいか。考えれば考えるほど、検討課題が次々と生まれた。

 私たちが、長期に法律相談などでお手伝いできる期間は、5月のゴールデンウイークくらいしかない。何か活動をしたいと決めた以上、行ってみるほかはない。こうして、海援隊に参加することにして、5日間のスケジュールとなった。

 運転は、Wさんに頼み、7時10分、出発した。Wさんは、「法律相談はできないとしても、被災者の方々に何かお役に立ちたい、自動車の運転手でもいいから手伝わせて欲しい」と参加してきた。東名高速道路に乗ると首都高の情報が入ってきた。まだ、7時30分頃というのに渋滞が始まったとのことだ。急遽、中央道で向かうことにして御殿場ICで降りた。しかし、みな、東北へ行った経験がなかったため、道不案内であり、中央道の下山サービスエリアに向かった。これは、失敗だった。中央自動車道から八王子〜JCT首都圏中央連絡道(圏央道)に入り、鶴ケ島JCT〜関越自動車道、高崎JCT〜北関東自動車道、岩舟JCT〜東北自動車道である。関越道に乗り、八王子方面から入ったほうがよかった。首都高の一つ外側の道路は、混んでいた。浦和で降り、食事をして再び走り始めた。その後は、H弁護士が運転した。しかし、埼玉県久喜、これから羽生、渋滞である。

 午後9時40分、漸く宿泊基地である花巻市花城町のK旅館に到着した。朝7時10分から14時間30分かかった。いよいよ明日から被災地に入ることになる。安堵と明日からの法律相談を思い浮かべながら就寝した。

2011.4.29(金)後藤正治 記

老人の再婚

 医学が発達して、ポリオや天然痘は根治できた。ガンなど治せなかった病気も治療できるようになった。エイズのような病気も出てきたが、その治療研究はめざましいものがある。アフリカでは、食糧危機で多くの子どもたちが死亡している国もあるが、日本では幸いに豊かだ。自給率30パーセントとはいっても食料品の輸入量は膨大で食品の品数はもとより品質も高い物が食卓にあがる。栄養も豊富になった。上下水道も完備し、生活環境も清潔である。こうして日本の平均寿命は、次第に高くなり、今は、男性81.25歳、女性87.32歳(2018年度)が平均寿命となった。高齢化社会が叫ばれて久しいが、まさに、日本は、高齢化の一途をたどっている。人が高齢化すると、次第にぼけるとか、仕事ができなくなって収入をどうするか、とかいろいろな課題が出てくる。

 「おまえ100まで、わしゃ99まで」というくらい夫婦が二人とも長寿を長らえれば、幸せだ。子育てを終わり、夫婦で旅行や社交ダンスを楽しむほほえましい夫婦をみるが、老後の充実した生活は夫婦健在により生まれる。しかし、夫婦が二人とも長寿を全うできるのは、少なくなる。男性の寿命と女性の寿命に差があるし、病気や事故による不慮の死は避けられないからである。そして、高齢化社会が進行してくると、ますます、一方が生き残る率が高くなっていく。

 50歳を越えて1人となった場合、平均寿命81.25歳から考えるとまだ31年もある。31年間も一人で生活するとなると、暗澹たる気持ちになることは、理解できる。60歳でも21年間はあり、自分は平均寿命より長くいきるだろうと考えるのが、人の常のようだから30年以上も一人で暮らすのは、いやだなと考える。そこで、再婚と相成るわけだが、子どもたちの反対も多くなる。父親の面倒を見るのもいやだが、後妻が入り、財産が後妻に流れるのもいやだと言うわけだ。これでは、残された父親はたまらない。まあ、さっさと再婚するさ、と思う。ただ、婚姻届を出さない通い婚と言うのも最近、多くなっているようだ。男性女性ともに以前からの生活があり、互いに、これを壊すこともできない。かといって終生一人というのも寂しいと言うわけで互いに親族友人などに公開した上で交際するわけだ。こういう間柄もよいことだ。

 ところで、70歳を過ぎ、また、80歳近くになって一人身となり、再婚する人もいる。理由は、同じようなものだ。70歳でも婚姻できる男性は、なかなかいないだろう。ゴルフでたまたまご一緒した方が80才近い方で、昨年結婚されたばかりだと言う。「来年あたりは、おめでたの話がありますね」と、こちらも冗談交じりに話したら、「連れの方は55才で、子どもは無理だな」と、明るく、本気な返事が返ってきた。このように結婚できる幸福者は、地位も財産もある方となろう。

 さて、このような場合、婚姻届をして僅か1年、2年で当の男性が死亡する事態に至ることも多くなる。民法では、妻はいつも相続人であり、子どもがいる場合には子どもと妻で半分の相続分があり、子どもがいない場合には、妻が4分の3、兄弟姉妹が4分の1となる。婚姻届け出後翌日で死亡してしまっても財産は、妻に半分いくことになる。

 このような結果を考えて、遺言を作って結婚するご老人もいる。結婚に先立ち子どもたちに対し、財産を相続させる旨の遺言を作るわけである。もっとも、結婚すれば、後妻に遺留分があるから遺言ですべては決まらない。いずれにしても、考える能力のある人は、遺言を作ったり、そのほか生前贈与を考えたりして、財産のバランスある分配を考えるが、多くの人の場合、遺言を作ったりしないで自分の感情の思うまま結婚に至る場合が多い。一人でいるのはいやだ、結婚するんだとばかりに結婚していくわけである。だいたい、賢明な人の場合、紛争など縁が少なくなるが、多くは法律など知らない人が多いのだから、紛争も出てくると言うものだ。

 私が受任したケースは、35年連れ添った妻を亡くした68才の男性が2年後70才で再婚し、婚姻届をしないと息子たちに約束したが、婚姻届をして2年後に死亡した事例であった。当然、後妻に相続権は2分の1あることとなる。息子は、怒った。母親は、65歳でなくなったが、父の人生の多くを支えてきた。自分の母親の貢献、寄与はどうなるのか。夫婦が健在の場合、ともに買った財産は夫婦共有である。離婚の場合には財産分与があり、夫が先に死亡した場合には、その妻には2分の1の相続権がある。これらは、ともに作ってきた財産の清算をすることにあるが、母親が先に死亡したとたんに全くの無価値になってしまうのか。後妻に、これらの権利が全て行ってしまうのか、である。

 私は、もっともだと思う。もとより、後妻の方に財産をやらなくて良いというのではない。何が公平かの問題であり、先妻が貢献して築き上げた財産を後妻に相続させて良いか、どのくらいの額が後妻に相続として承継させて行くべきかの問題である。

 この件は、法廷で争われた。私は、次のような主張を行った。夫名義の財産は、確かに夫名義であるが、亡くなった妻の功績が多く、無くなった妻の相続分が含まれている。この部分は、2分の1であり、後妻の相続分の対象の相続財産から除くべきである。先妻の寄与分は、先妻が死亡したことから直ちに無くなるべきではない。このように先妻の財産形成寄与部分を夫の相続財産から除いても後妻の期待を裏切らない。そのほか、種々主張した。本件では、最高裁に上告したが、私の主張は、採用されなかった。しかし、高齢化社会が進行していく中で、80才の男性が長く連れ添った奥さんに先立たれ、再婚し、1年くらいで死亡した場合、夫の全財産を対象に文字どおり2分の1の相続権が認められるべきとは、思えない。高齢化社会になって、法改正も考慮しなければならない条文の一つであろうと思う。

 亡くなった当のご本人は、なんとこの紛争を眺めているだろうか。我々は、公平な配分が相当と思い、この条文の行方を見つめたい。

1995.2.18(土)後藤正治 記

2020.2.28(金)追記

路傍の石

 繰り返し雨に打たれ、風に吹かれて、道路に隠れていた石は、顔を出す。道路に出っ張った石は、やがて行きかう車の車輪に踏みつけられ、弾き飛ばされ、人の足で蹴られて、道路の脇に追いやられる。路傍の石は、道路にとって邪魔者で、道の傍らに忘れられていく。

 子供たちに「路傍の石」を聞くと、この意味を知らない。今、私たちも、路傍の石を見ることがない。道は、アスファルトやコンクリートに舗装されて、雨が降っても、自動車が走っても、路傍の石を作り出すことはなく、どこまでも平坦な道が続く。

 高校生も終わりころになり、「路傍の石」山本有三に出会った。吾一少年は、小学校を卒業してから、丁稚奉公に入り、いじめられ厳しく辛い毎日を送る。ここには、路傍の石のように踏みつけられ、蹴飛ばされて役立たずとけなされ、社会から忘れられたような吾一がいた。

 路傍の石とは何だ、路傍の石で何を言いたいのだ、吾一が苦労しても俺と変わりがない、そんな話を書いてどうなると言うんだ、と本を読みながら反発と疑問が出てしかたがなかった。しかし、「艱難汝を玉にす。人間は、人生という砥石で、ゴシゴシこすられなくちゃ、光るようにはならないんだ。」と山本有三は答えた。この言葉、最初は、私に漠然としたものだった。艱難とは何か、玉にすとは何だ。人間が光る、とはなんだ。人間を砥石で、ゴシゴシこすれば、光るのか。一言一言噛み砕くことによって、苦労は苦労だけで終わるのではなく、どんな人生でも苦労で光るようになることを語っていると理屈だけは理解できるようになってきた。

 我が家は、私が小学生1年生の頃、豆腐屋を開業した。当時、足踏み式の石臼で大豆を摺り下ろし、釜で具を煮る。こんな頃から、豆腐作りを手伝い、乳母車を引いて、豆腐を売っていた。学校へ行けば、「豆腐屋!プッ、プー」とラッパを吹いた格好をして、同級生からからかわれ、いじめられた。この仕事が中学校を卒業してから本業となった。私は、主観的には、路傍の石のような人間となった。「艱難汝を玉にす」の言葉に出会って、この言葉が本当かどうかは分からないまでも、豆腐を作って売る人生に、ほんの少し納得が持てるようになった。

 それから3年ほどして、日大通信教育スクーリングで、司法試験を決めた。漠然とした人生に一条の光が差し込み、15年かけて弁護士になった。私の青春時代は、まさに路傍の石のような人生だった。では、実際の道路にある路傍の石は、磨くと玉になるのだろうか。路傍の石を拾い、磨き磨いたらどうなるのだろうか。

 こうして、箱根の旧東海道に路傍の石を探しに行った。いまは、探しに行かなければ、路傍の石はない。旧東海道は、各所に残っており、三島から箱根にかけて所どころにある。この道は、更級日記の菅原孝標女が千葉、市原から京都へ帰るあづまぢの道だっただろう。江戸時代の多くの町人や参勤交代で大名行列に踏みしめられた石かもしれない。赤穂浪士が江戸入りの際に踏んだ石かもしれない。あるいは、改修工事で最近、補修用の石として撒かれたかもしれない。いずれにしても、旧東海道脇の片隅に転がっている小さな石は、何万年、何千万年、数億年も昔に生まれた岩であることは間違いない。

 子供達に、「このゴツゴツした汚い石、研ぐと輝いてくると思うか」、と聞いたところ、「輝かない」、と答える。子供に、「一緒に磨こう」と誘い、磨く。この石を荒砥で研ぎ、番手の異なる耐水性サンドペーパーで研ぐ、そして、最後に研磨剤で磨ぐ。業者に頼めばやってくれるかもしれない。機械を買って研磨することもできる。しかし、手作業で磨いてこそ意味がある。3日、4日、5日、一日中磨くわけではないが、懸命に研ぐ。「ゴシ、ゴシ」、「ゴシ、ゴシ」、石ころたちは、苦しい音を出しながら、次第に輝きを持つようになった。路傍の石たちは、黒い輝き、黒みを帯びた縞模様の輝きなどをその中に持っていた。

 建物の大理石や玄関の磨かれた輝いた石だけが石であり、ダイヤモンドや翡翠などの宝石だけが価値あるものではない。むしろ、路傍の石が輝くようになることを知る方が大切だ。この石、私たち人間を含め、最初から決め付けられる人生ではなく、艱難を耐えてこそ輝いてくることを教えてくれる。

 いま、小中学校からアルバイトをやり、丁稚小僧として勤める子供たちはいなくなった。いろいろな事情で仕事しながら、夜高校へ、大学へ行く学生も少なくなった。平成13年3月、三島のわが母校、日大短期大学夜間部は、閉鎖された。平成22年3月には、三島北高定時制も同様となった。子供たちは、みな、アルバイトをすることもなく、むしろ、アルバイトを禁止されて学業のみを終える。アスファルト舗装の道路と同じように平坦な人生となった。

 しかし、いじめや家庭内の虐待や登校拒否の形で現れている。これは、形を変えた路傍の石である。また、奨学金とは名ばかりで、返済しなければならない学費を借りて大学を卒業して、卒業後に借金の返済に苦しむことも路傍の石に他ならない。

 道路に行っても、今、路傍の石を見ることはできない。しかし、海に行くと、海岸には、石が打ち寄せられていて役に立ちそうもなく転がっている。海岸の石たちは、たくさんの石に揉まれ、丸くなっていた。路傍の石は、泥まみれで、ひとつとして同じ形はなく個性があったが、海岸の石は、汚れがおちて丸みを帯び、個性がなくなっている。これも磨いてみた。硬い石だった。この石たちも輝くようになった。どこの国の、どこの路傍の石、海岸の石も磨くことにより輝くようになる。

 親が貧しい、親が親としての役割を果たさない、身体的ハンディ、学校でいじめられる、学歴がない、仕事の悩み、人生には、いろいろ苦難がある。こんな苦難ほしくはないが、「辛い、悩む、悲しい」と思える年齢のときにはすでに苦難の中に入っている。避けられない宿命でもある。しかし、へこたれちゃあいけない。負けちゃあいけない。

 ただ、めげそうになる時がある。何度もなんどもだ。これは、しかたがないことだ。そんな時、路傍の石や海岸へ行って、さもない石を拾って磨いてみると、輝いてくる。荒砥は、厳しく、辛いしごきとなる。しかし、荒砥は、石を磨く時には大切な第一段階だ。荒砥のような奴、嫌いだ。だけれど、自分を磨いてくれるいやなありがたい奴だ。そう言って、がんばろう。

2004.03.02(火)後藤正治記

2019.09.10(火)追記

ハム局

 中学生の頃、「CQ、CQ、CQ。こちらJA1・・・」「ジュリエット、アルファ、ワン、・・・」などと交信しているのを見てハムにあこがれた。

 この夢に一歩近づいたのは昭和55年10月司法試験に合格した直後だった。もう1ケ月半すれば司法研修所に入るという頃、三島信用金庫に勤務しているUさんからこんな話があった。「ハムの試験というのは問題を見ると電波や電気抵抗など理解して答えを出そうとするとなにやら難しそうですけれど、コツがあるので、やさしいですよ。小学校の2年生とか3年生が合格したという話を聞くと思いますが、要するにコツ。試験問題は繰り返し出ていますから問題を全部覚えればいいんですよ。」

 こう聞いて第4級アマチュア無線技師試験を受ける気になり家内とともに申し込みをした。私は、まじめにやろうとして法規集、電波の参考書を買った。しかし、電波の勉強をまじめにやろうとすると、どうもやる気がしなくなる。試験は3月初旬の明日に迫ってきた。私は、「面倒だ。やめた」と思い、これを宣言したところ、「そんなのおかしい」と言われ、やむなく一夜漬けで問題集1冊を記憶することにした。問題と回答で100問くらいあった。こうして、ぐらぐらした時期はあったが、夫婦とも合格となった。私は1~2問間違えた。家内はじっくり勉強していたようで「私は、全部できたよ」という。ちょっと、悔しいが、まあ、一夜漬けなら仕方がない。

 開局番号は、家内が「JJ2AXX」私が「JJ2AXY」となった。144メガバンド、通称2m(ツウメーターという)帯の機械を備えたのは弁護士になってからだ。自宅に据え置き型、車の中に携帯型を入れた。こうして交信を始めたが、どうも思った夢の実現になっていない。交信はまず、メインチャンネルで互いにコンタクトをとり、空いているサブ・チャンネルに移って個々の交信となる。知らない人との交信は互いに求めている話題が合致して、他のチャンネルを探すことになるのだが、私は、メインチャンネルで飛びかう話に加わっていけない。

 そこで家内との交信に落ちついてしまった。午後5時半から6時半ころに交信することにして、自宅の台所に設置した機械に電気を入れておいてもらう。「CQ CQ こちらJJ2AXY。今から帰る。夕食のおかず何。え、里芋の煮付け?じゃあ、外でたべるかな。」こんな会話である。Uさん曰く「先生、別に聞こうと思って聞いた訳じゃあないんですよ。奥さんとの交信たまたま聞いたんだけど、あれじゃ奥さんがかわいそうだよ。もっと気の効いた話題ないかあ。あれじゃ、離婚間近じゃない。」こうして家内との交信も検閲にあってとぎれがちとなった。そんなころ、車上窃盗に遭い、携帯用無線機を持って行かれてしまった。これで、夫婦での問題の多い交信は、途絶えた。盗まれたことで、離婚の危機が避けられたのかも知れない。

 更に、夢を実現すべく21メガバンド帯に行った。これは北海道から沖縄で広いエリアで電波をとることができた。しかし、これでも何か空しかった。なぜだろう。中学生の頃は、北海道や沖縄は地の果てである。それこそ、そんなところで住む人と話ができるなんて、夢のようだ。ところが、今は違う。電話も、テレビもある時代だ。弁護士となり、そこへ行こうと思えば、行ける。何か、私の心はさめていた。

 こうして、海外へ電波の方向を受けた。今度は英語の世界である。入る入る、どうもアメリカのようだ。今度は、シンガポールのようだ。しかし、応答する能力がない。問題は、英語である。こうして、帯に短し襷に長し、昭和62年頃から中断して、「JJ2AXX」と「JJ2AXY」の開設局も更新切れで閉鎖となってしまった。

 1995年5月、阪神大震災後のボランティア法律相談で神戸に行った際、50ccのオートバイが移動には有効だ、自家発電機の用意もした方が良い、そして、アマチュア無線をやっておられる方々の活躍の話を聞いた。静岡県では、駿河湾沖を震源とする東海大地震の話が出て久しい。また、パソコンとの接続の話も可能で、衛星通信の世界もあるようだ。こうして、再びアマチュア無線局を開設することを検討したが、未だに着手はない。

1997.2.24(月)後藤正治 記

 阪神大震災から24年を経過したが、東海大地震は、幸い未だに襲来がない。アドバイスを受け備えとして購入した50ccのオートバイと自家発電機は、朽ちてしまった。しかし、日本を取り巻く火山帯は活動期にあると言われるほど、多くの地震が日本の各地に発生している。代表的なものだけでも、2003年は十勝沖地震、2003年は新潟県中越地震、2011年は東日本大震災、2015年は小笠原諸島西方沖地震、2016年は熊本地震、2018年北海道胆振東部地震であるが、このほか全国各地に地震が発生している状況である。東海大地震だけは、不気味に静寂を続ける。

 ハム局を開設した昭和58年頃に比べると、携帯電話の発達は、著しい。ビジネスのための一部の者しか使用できない高価なものであったが、個人ユーザーの時代となって、今は小学生までが使用することとなった。携帯電話は、生活に不可欠な機器となったが、大地震による通信施設の破壊や使用者のアクセスが集中すると、通信網の途絶もありうる。これを考えると、ハム局の開局が必要なのかもしれない。

2019.7.23(火)追記