シルクロードの旅(トルファンの市場にて)

 「トイレの状況はわるいよ。大のほうは板をまたぎ、下では豚が待っている。」と専ら本の影響ではあるが、脅かされて、シルクロ−ドの要衝トルファンへ向かった。ここはウルムチから南東へ約200キロ、次の訪問地敦煌から西へ600キロ、天山南路にあるこの地には、玄奨三蔵が講義をしてインドの帰途16年後に再び寄ったときには既に滅びていた高昌古城、西遊記の舞台にもなった赤々と燃えるような岩肌の火炎山、漢代に車師前王国の国都として栄えた交河古城などの遺跡があり、トルファンは、正に、中国西域の古都である。

 ツアーの旅に単独行動ができる時間はあまりないが、お決りのコ−スとは違う自分なりの旅を楽しむのは、自由時間を置いてほかにはない。ここでのタクシ−は、ロバに2輪の荷車を付けたものしかなく運転手は13才位の少年である。お客のために日本語も勉強をしているしたたかな少年との付き合いは、値段交渉から始まる。「バザ−ル、10元、安いよ」と声を掛けてきた。中国人の1か月の収入は通常100元(日本円で4000円)からすると法外に高い金額を吹っかけてきている。私は、笑いながら「プシ−、イ−シチエン、イ−ユエン」(だめだ、1時間では1元だ)と答える。結局、5元で妥結した。町は、ロバ車が行き交い、ロバ車が溢れていた。

 近代的な鉄筋コンクリートの建物がある1方で、日本の朝市に似たバザ−ル(市場)が開かれている。店は、200店とも300店とも思える数の店があり、そこには、ロバ車で荷物を運び、家族してロバ車に乗って皆買い物にやって来る。ぶどうや干しぶどう売り、ハミウリ売り、林檎売り、ナイフ売り、キャベツ売り、トウモロコシ売り、肉屋、靴屋、帽子屋、食堂、売る人と買う人とがごった返していた。私は、カメラを持ちバザ−ルに入ったが、途中でフィルムが終ってしまったので、これを交換しようとカメラの裏蓋を開けてフィルムの交換を始めたところ、たちまち20人位の子供たちの人だかりで私は、埋もれてしまった。我々日本の生活状況は、かくも変化したかと、一瞬、戦後のアメリカ兵に群がる私の少年のころを思い浮べた。

 バザ−ルで「マネ−チェンジ、マネ−チェンジ」と秘かにお金の交換を求めてくる。私が、経験のためその交換に応じようとしたところ、ロバタクシ−の少年が「俺と交換しよう」と言ってきた。交換内容は、「兌換紙幣100元に対し人民紙幣100元、タクシ−代はいらないよ」と言うものだった。私は、「プシ−、イ−パイ、パシ−、ユエン」と人民紙幣180元でなら交換しても良いと、大きく出た。添乗員が交換は止めたほうが良いでしょう、と言っていたが、私が勉強のため交換したい思ったからである。

 私の態度を見て、少年は、それでは120元で交換すると答えてきた。私は、また「プシ−、プシ−」だめだ、だめだ、と言ったところ、130元になった。バザ−ルの中で少年と肩を組み、歩きながら楽しいやり合いは続く。私は、「ペイチン、イ−パイ、パ−シ、ユエン」北京では180元だと言ったところ、少年は、負けずに「ペイチン、ペイチン、トルファン、トルファン」とやり返してきた。これは、要するに北京には北京の相場があるが、トルファンにもトルファンの相場があると言う意味だ。私は、これには、大笑いをしてしまった。結局、130元から135元へと上がってゆき、140元で交換交渉はまとまった。別れ際に、本当の交換率は幾らかと聞いたところ、150元であり、自分が5元、「ガ−ガ」兄が5元を取ると言っていた。ここにも場所を取り仕切る兄貴分がいるのだろうと思えた。

 ホテルに到着して料金を払おうと約束の5元を出したところ、当初の料金の10元を言ってきた。私は、約束は5元だと頑張る。少年は、ゆずらない。なかなかしたたかである。暫くのやりとりの後、私の5元が通った。少年が納得して5元を受け取ったのを確認してから、お礼の5元を渡した。彼は、トルファンの市場を案内し、写真のモデルになり、私を写す写真屋さんにもなってくれたからだ。その少年の顔が笑みで溢れた。

 1987年10月に見たトルファンの情景は、砂漠に現われた蜃気楼のごとく夢か幻のように思える。仕事の意欲を作るために、仕事を忘れて旅をする。素晴らしいシルクロードへ、私は、また、行ってみたい。

1988年2月18日(木)後藤正治 記

シルクロードの旅(ウルムチ)

 北京から飛行機で2500キロを飛び、降り立った中国西域の街ウルムチは、砂漠の中にあった。地図を見ると中国にはタクラマカン砂漠やゴビ砂漠が横たわっており、我々からすると、ここだけが中国の砂漠地帯と思ってしまう。しかし、北京から飛ぶ飛行機の中から見る中国西域の光景は、延々と続く赤茶けた砂漠地帯である。タクラマカン砂漠は、「死者の白骨をもって道標となすのみ」と伝えられる砂漠で、とりわけ厳しい砂漠をいうようである。

 ここウルムチは、中国と言ってもソ連カザフスタンの近くであり、彫りも深く西洋形の顔立ちで、被っている帽子はイスラム教を表し、異国情緒溢れる。人種的に見て漢民族が中国の人々だと思う我々のイメ−ジからすれば、これが中国の一部かと驚く。

 ウルムチの初日は宿泊だけとなったが、2日目は、時速80キロのスピ−ドで3時間走っても4時間走っても、砂漠が尽きない中をボゴダ山に抱かれた天池に向けてマイクロバスは走った。時々、オアシスが現われては去り、去っては現われてくる。緑が次第に濃くなるとオアシスが近づいたことを告げ、ロバ車に乗った農民が行き交い始め、緑が薄くなっていくととともにロバ車や人影が薄くなっていった。

 ボゴダ山の中腹に抱かれた天池は、箱根の芦の湖のような風景であった。水に親しんでいる我々には、珍しくない景色であったが、ウルムチの平野の年間雨量は16ミリであり、中国西域の旅行中、満面と水をたたえる湖に会うことはないだけに、それは正に字のごとく天の池と言うべき光景だった。帰り道、ウルムチ全市を望める紅山などを観光して、夜8時頃宿舎へ帰ったが、ホテルの屋根の装飾部分に夕日が落ち、輝いていた。

 中国は、全国統一時間で北京時間が標準時間であるため、ここの日没は、夜9時頃である。この日、1987年9月30日は、国慶節前夜祭であった。地元の有力者、中国旅行社、ドイツ人、フランス人、日本人などの旅行者200人位でパ−テイ−が始まった。「ニイメン、ハオ−−」と中国語で挨拶が始まる。終りかと思うと、次は、「レデイス、アンド、ジェントルマン−−」と中国語の挨拶を英語で行ない、最後に日本語で挨拶する。目の前には、ごちそうが並ぶ。もう挨拶はいらないと思うが、2人目、3人目と挨拶は続く。3カ国語で3倍の長い挨拶が終ると、シェフが羊の丸焼きをワゴン車に乗せて来た。大勢の前で若干はにかみながら、香ばしい色に焼き上がった子羊を引き回す。彼は、漢民族ではなく、西洋形の顔付きをしており、ウイグル人であった。

 シシカバブ−のつまみ等で酒はすすむ。宴は、益々たけなわとなっていく。中国の人から歌が出た。声量のある良い声だった。何曲かの後、ドイツ人らしい人から歌が出た。こういうところでは、我々の方でも何か出そうと思う。同行メンバ−が「北国の春」などを歌い、国際色豊かな宴は盛り上がった。

 12時頃となり宴も終りとなったが、フランスの人達は、フォ−クダンスを踊っている。私は1人、ホテルで知りあった中国人の画家達一行と話していたところ、彼らからダンスパ−テ−があるから行かないかと誘われた。私は、北京から遠く離れた中国西域のウルムチでダンスパ−テ−があるのだろうか、上海や北京ではダンスパ−テイ−があるとは聞いているがどんなダンスパ−テイ−だろうかと興味津々となり、誘われるまま行く事にした。場所は、市街地かと思ったところ、宿泊した友誼賓館の別館3号館であった。宴会で言えば、100人は入る大きなホ−ルに楽団が入り、生演奏でダンスを踊っていた。異国の地で予想だにしなかった場は、華やいだものであった。皆、中国の人達で70〜80名位、外国人旅行者はいない。曲はルンバかジルバの曲である。皆、ルンバのようなステップで踊っている。私も中国女性にお願いしてジルバを踊った。国慶節前夜祭でしかもホテルの一隅という制限されたものではあろうが、中国の自由な雰囲気をこのような形で垣間見ることができた。

 ダンスが終った後、画家達一行の宿泊部屋で雑談をすることにした。酒を酌み交わしながら、家族構成のこと、中国人の収入のこと(月100元、日本円で4000円)など種々聞いたが、日本の経済力のことなど、向こうからも聞かれた。興味がつきないのはお互い様だ。話が終った時間は午前2時ころ、私のホテル2号館の入り口は既に締まっており、締め出されてしまった。画家達一行に手伝ってもらってホテルに入ったが、寝た時間は、午前3時となった。

 このような旅の始まりだった。翌日、我々三島市友好訪中団は、敦煌の壁画には及ばないが敦煌以上の雄大な自然の中に窟たれたベゼクリ−ク千仏洞、高昌古城、火炎山、交河古城などがあるトルファンへ向かい、旅は続く。

1988年2月18日(木)後藤正治 記

 今、強制収容所で約100万人のウイグル族の人たちが収容されていると言う報道がある。32年前に訪問した時、予想だにしなかったが、地理的には中央アジア、民族的にも漢民族とは顔つきが全く異なり、宗教はイスラム教である。政治の正統性の基礎は、地理、民族、宗教などからすると、求心力が欠けてくることは否めない。砂漠のオアシスの中で、豊かなブドウ畑と民族舞踊が舞っていた平和な地が今は、失われているとの報道に心は痛む。

2019年7月23日(火)追記

「ソクラテスの弁明」のすすめ

 この原稿は、1995年に書いたものですが、現在、日本では裁判員制度が進んでいます。この裁判員制度は、6人の裁判員が国民から無作為で選ばれ、裁判に加わり5日以内で審理判決に至ることを想定しています。
 「ソクラテスの弁明」のすすめの意義については、1995年当時からすると、裁判員制度は予測しませんでした。ここにおけるアテネの陪審員制度は、紀元前399年、500人の陪審員で、1日で審理判決しています。将来も、予測しない意義が生まれてくるでしょう。

 「ソクラテスの弁明」を読んで欲しい。ソクラテスとか、プラトンとか、その名前を聞くと「難しい、すごい高度な本だ」と思うかもしれません。しかし、考えても見てください。自分自身を冷静に過去に対する評価を見ると、次の通りではありませんか。すなわち、日本の500年昔は、戦国時代で、1543年ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝えています。更に、1000年を遡ると古代から中世へと変化し、西暦1068年は平安時代となります。平清盛が平治の乱で勝利したのは1159年です。この時代へのあなたの評価は、古い、遅れていると思っているのではありませんか。これを西洋文化から見ると500年前は、1492年(いよーくにが見えた)コロンブスがアメリカ大陸を発見しています。更に、約900年を遡ると1096年第1回の十字軍の遠征が始まります。孫悟空の物語で有名な中国の玄奘法師がインドに行って仏典を持ち帰っている時代は600年代です。この時代に対するあなたの評価は、日本のこれらの時代への評価とほとんど同じで、遅れているという評価なのではありませんか。そうとすると、2400年前の本なんかどうってことはないと思って欲しいのです。

 ソクラテスが死刑になった紀元前399年ころを日本の文化で見ると、縄文時代の晩年期で弥生時代を迎えようとしている頃です(研文書院・大学の日本史P54。)。石器を使い、野において鹿や猪の獣を追い、まだ、農業が始まっていない文化でした。なお、縄文時代から弥生時代への移行時期は、研究が深まり変動していくことでしょう。他方、中国では孔子が紀元前551年頃生まれ479年に亡くなっておりますが、孔子の死後、弟子が孔子の述べたことを主体とした「論語」を表しています。自分の歴史観からするとソクラテスの生きていた時代というのは、随分昔のことでしょう。こんな昔に書かれたことなんだ、と気楽に読んでほしいと思います。

 この本は、紀元前399年、ソクラテスが裁判所に訴えられ、このソクラテスが法廷において述べた裁判についての弁論を記述したものです。少し詳しく述べると、ソクラテスがメレトスそのほかの者により、「ソクラテスは、青年に対して有害な影響を与え、国家の認める神々を認めず、別の新しいダイモン(異教)のたぐいを祭る犯罪人である」(第11項)という理由でアテネの裁判所に訴えられます。
 ソクラテス自身がその裁判において500人の陪審員(裁判官)と市民聴衆を前に反論、弁明をするのですが、「ソクラテスの弁明」は、その内容を弟子であるプラトンが記述したものです。その内容は、すばらしいものです。ソクラテスの何よりも正義を重んじていること、死に臨んでもこの価値を貫く生き方、思想を学んで欲しいと思います。

 ソクラテスは、この裁判により死刑の判決を受けます。死刑の執行まで、1カ月の期間獄舎に入っているのですが、この期間友人のクリトンと言う人がソクラテスに脱獄を薦めます。脱獄が正当かどうかを議論しているのを記述したのが「クリトン」です。そして、いよいよ死刑執行の日が来ました。この日のソクラテスの友人との生死の議論、毒杯を飲むに至るときのソクラテスの態度を記述したものが「パイドン」です。ソクラテスの弁明に続いて、この2つを読むことがよいでしょう。「饗宴」を含めて4つがソクラテスの4福音書と言われています。

 この本を読む意味は、「柱の思考」の柱となることです。まず、「歴史学を楽しく学ぶ」についても、ここを出発点とし、比較論的アプローチをすることがよいでしょう。日本が縄文時代から弥生時代に入ろうとしていた時期に、遥かギリシャ、アテネでは、裁判を行い、陪審員の前で崇高な哲学と論理で弁論を展開しています。民主政治を考えるについても、このアテネでは、この当時、すでに存在しているのです。

 第2に 歴史的考察を離れ「思想的にも意味があります。」ソクラテスは、プラトンの先生で、プラトンはアリストテレスの先生です。この偉大な人たちの考えに驚きます。この時代、古代ギリシャの思想と文物をいろいろ学び、ここを考え方の出発点として欲しいからです。何を考えるでも、ここへ立ち返り、こことの対比の中から考え、論述して欲しいと思います。「現代社会の諸問題、ありとあらゆることを考える」うえで「柱の思考」の柱になる思想です。

 第3に 個人としても立派なものです。自分の死刑が求められている裁判において、このような弁論が堂々と述べることができるでしょうか。私は、弁護士で法廷弁論を職業としていますが、ソクラテスと同じ立場に立ったとき、かかる弁論ができるかというと、疑問です。死について、生について、これほどの考え方と弁論は困難でしょう。

 また、この本から「本の読み方」を学んで欲しいと思います。この本は、目次がなく、33項からなっています。このような本を読む場合、どのようにしたらよいでしょうか。単に、このまま読んでいくと理解するのに困難です。また、読んだ後の普通の本の把握ができません。通常、本には、目次があり、目次はピラミッド構造(ツリー構造)に組み立てられています。ですから、この本も「目次」を作り、「ピラミッド構造」に組み立てることが必要です。これをやることは、一見大変なようですが、自ら行うことを心掛けると、本を読む能力はもとより、論文を書く能力も付くのです。やってみて下さい。

 この本を読むについては、中央公論社「世界の名著」プラトン1 を読むのがよいでしょう。訳は田中美知太郎編集によるもので、中央公論社のものの方が新潮文庫や角川文庫の訳に比べ極めて平明にできています。なお、私の解説中の(注)は、「世界の名著」プラトン1から引いております。

 「書く意味」を考えてください。
 あなたは、普段から書くことを意識しているでしょうか。「ひらめきや考えたことをいつも書く」、という態度があるでしょうか。ソクラテスは、自分で考えたことを書いてきませんでした。ソクラテスという人が2400年もの間、そして、未来のこれからも人類に問い続けることができるのは、書いたものが残っているからです。ソクラテスが偉かったとともに、その弟子であるプラトンが偉大な人であったから、この「ソクラテスの弁明」が書かれ、その偉大さが残っているのです。もし、この本が書かれなかったならば、数年でソクラテスが問いかけた意味は、消えてしまったでしょう。

 書くことが大事です。書いて書いて書き続けてください。現在の科学文明が高度に発展したのも、書いた書物が残ったからです。もし、書くという手段が行われなかったならば、人の記憶に残るものは、わずかしかありませんから、今の高度といわれる文明は実現しなかったでしょう。書くことその重要性を認識し、行動してください。

6 子供の教育

 私は、親から私の教育を唱えられたことがありません。親から豆腐を造り売ることを求められ、私の人生の悩みの原点となりました。なぜだろうか。いろいろ考えました。この疑問から生まれた一つのテーマが、親とは、どうあるか、どうあるべきか、でした。そのため紀元前にまで、遡りました。第4項では、人間教育が議論されています。歴史を通して、親は、子供に対し、全力で良き子への実現に向けて、エネルギーをかけます。だからこそ、良き文化が生まれます。今、日本が良きにつけ、悪しきにつけ、こうあるのも、親の行為の結果です。
 我らは、まず、自分が世界のレベルを意識して大きく羽ばたく必要があり、そして、子の教育は、更に、親を越えて羽ばたく環境を整えることが肝要です。 (この項、2009.02.16 追記)

子供達への贈り物 1995年05月03日(水)後藤正治 記

雨の中のバラ

 早朝から豆腐作りを始める。豆腐作りを終えると、次ぎは、加工品のあぶらげ、厚揚げ、がんもどき、焼き豆腐作りに移る。加工品の下作りを終えると、10時頃になる。そこから豆腐売りに出かける。

 午前中に豆腐売りに出かけるのは、箱根山系の村落である。私の売り場は、国道1号線方面か、静岡県三島市玉沢方面の2つになる。国道1号線方面は、塚原新田、市山新田、三ツ谷新田、笹原新田、山中新田と売って歩く。玉沢は、玉沢本村と、玉沢妙法華寺を過ぎた本堂裏、奥山、桑原、台崎と村落が続く。

 春先は、菜の花が溢れ、すみれ、タンポポ、野の草々もかわいらしい花をつける。夏は、汗を拭う日となり、せみの鳴き声がかしましい。秋は、サツマイモや陸稲の収穫があり、山栗が道ばたに転がり落ちる。冬は、自然も殺風景となり、時に、雪に覆われる。

 豆腐売りの競争相手は、玉沢方面では、私と同じ谷田小山中島の増田魚屋さんだ。先を越され、魚を売られると、売り上げがグンと減り、豆腐や加工品が売れ残るので、台崎、更には、三ツ谷新田まで足を伸ばして、売りに行かなければならなくなる。農家の方々が、魚も、豆腐も、両方買ってくれるといいが、野菜の大豆でできた豆腐より、魚の方に目が行くようで、魚屋が通過した後に豆腐を売りに行くと客足は、ぐっと減る。だから、彼が売りに出るか出ないかが問題だ。彼が今日、玉沢へ売りに行くというのであれば、玉沢方面は、避けて、国道1号線方面に行った方が良くなる。しかし、彼が売りに行くリズムは分からない。

 そこで、私は、『玉沢の森本だけれど、今日は、来るの?』、ある時は、『玉沢の野口だけれど、今日は、来ない?』と、増田さんが行商に行くかどうか、電話する。増田さんは、

「昨日、行ったばかりだから、今日は行かない。」

「今日は、忙しいので、行けない。」

「今日は、行くよ。」

 こんな回答となり、私は、これらの情報を下に売りに出かける。増田さんが行商した3・4日後が、買い貯めした魚の在庫が減るから一番いい。情報収集が功を奏する場が多かった。

 快調な売出しを期待して、行くと、

『あれ、増田さんがいる。変だな。』

増田さんは、競争相手だが、人柄のいい方で、私は、挨拶をよくする。

『増田さん。こんにちは。いい天気ですね。売れ行きどう?今日は、来る日なの?』

「忙しいんで、来るつもりではなかったんだけれど、電話があってね。前、来た日から日が空いていたので、来ることにしたんだ。」

『あれ、失敗。俺の電話だ。これが原因で、来てしまったか。』

こうして逆効果のこともあり、情報収集はいつしか、しなくなってしまった。

 玉沢本村、本堂裏を売り終わり、奥山に入った。奥山は、10軒ほどの集落だが、中ほどに妙法結社という神社がある。神社の参道へ上がる手前に、台崎、三ツ谷新田に通じる道路が走る。道路の端を見ると、道路に沿って細長い花壇があった。ここには、ある時はチューリップ、時にダリアの花を見た。しかし、今日は、雨、ここには、バラがあった。バラは、こぶし大の大きさの真紅のつぼみをつけている。根元からは、ピンクの新芽が60cmほどの長さにグングンと伸びていた。新芽の針も初々しく、6月の雨は、奥山部落を包み、バラに降り注いでいる。私は、その鮮烈さに目を見張った。

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の

針やはらかに春雨のふる

 定時制高校のとき、国語に出てきた正岡子規の歌が浮かび上がってきた。『この歌のようなバラが本当にあったのだ。』言い知れぬ感動があふれた。この花壇は、長塚さんの奥さんが丹精して育てていたものだった。私は、奥さんにバラの枝を1本貰い、家に持っていって挿し木にした。1年が経ち、このバラは、我が家に根付いた。

 24才、豆腐屋から司法書士になり、苦しい司法試験が始まった。挿し木にして2〜3年後くらいから、このバラは、毎年、こぶし大の大きさの真紅のつぼみを付け、6月には、春雨の中にあった。5月は、短答式試験があり、6月は、論文式を迎える精神的に厳しい時期だ。こんな時、このバラは、玉沢の思い出を蘇らせてくれた。あのころは、司法試験の勉強すらできなかった。今、苦しいけれど、試験を受けることができる身分となった。バラは、明るく励ましてくれた。

 試験が10年の長きに渡った。私は合格するのだろうか、こんな日が続き、バラへの配慮をなくしていた。このバラ、今はない。どうなったのだろうか。どうしたのだろうか。このバラを失わせてしまったことは、私のミスだ。

 6月、バラ園に行くことがある。花屋さんの店頭で、深紅のバラと出会う時がある。いつも、短歌と玉沢の雨の中のバラがよみがえる。バラは、「あの頃と同じようにガンバっているか」、と語りかけているように思える。

2009.9.3(木)後藤正治 記

市立中学校学校評議員 原稿

2012.6.14(木)追記

年賀状

 毎年12月になると、年賀状をどのように書くか、一つの仕事になっている。中学校を卒業して仕事に就いたころは、何の負担もなかった。数が少なかったので、下手ではあったが、内容も宛名も手書きで出していた。昭和44年、24才、司法書士の事務所を持ち、友人の他に仕事上のお世話を頂く方が増すに連れて年賀ハガキの数が増えてきた。次第に、手書きで追いつかなくなり、印刷になった。しかし、少なくとも宛名は手書きだ。

 弁護士になり、年賀状の数が更に多くなってきた。内容は印刷、宛名もワープロ専用機に頼んだ。しかし、疑問が沸いて仕方がない。1年にたった一回の年賀に表も裏も印刷では、いったい何のための年賀状なのだろうか。弁護士時代より豆腐屋時代の方が心がこもった年賀状と言える。

 社会的活動の範囲が広くなるにつれて人との交流は多くなる。コミュニケーションの手段が、電話、ファックス、パソコン通信、携帯電話、E-Mailと多様で簡便になって、多くの人との交流が可能になる。この手段は、これからも新しい方法が生まれ、迅速化するだろう。しかし、ホットな心の部分は、機械という水で薄められて、心の味がしないものを伝えるようになっている。年賀状の印刷は、単なるこの現れの一つに過ぎない。科学技術の発達、コンピューター化による物質的な豊かさは、心の貧しさを作る。

 考えて、内容に一言で良いから、書き加えるようにした。しかし、送る人の顔を思い浮かべながら、一言を入れるとなると、大変な作業だ。毎年、11月から書こうとするが、実現しない。12月28,29日になっても終わらない。ついには、晦日、大晦日に出すようになっていた。再度の疑問が出た。年賀状は、苦痛のためにあるのだろうか。

 そこで、年賀ハガキから年賀封筒にした。印刷ではあるが、「心を込める」ことに工夫しよう。こうしてマッキントッシュのグラフィックソフト・フォトショップとワープロソフトを使って年賀状を作り、カラーレーザープリンターで印刷を始めた。図柄、色、レイアウトも試し印刷を行い、決めていく。封筒と紙の色、紙質で良いものはないか。仕事で横浜や東京へ行く際に、探してみる。文字書体のフォントも明朝体、ゴシック体、行書体、正楷書体などを検討する。内容は、ニュースレターのようになっている。いつも、これで良いのだろうか、と思うが、現在の一つの結果であることに違いはない。

 年賀状を頂く人も増えた。いろいろある。最近は、カラフルな楽しい年賀状が増えてきた。パソコン時代を反映して、パソコンを使い、カラー印刷をしている。絵や写真、文字も1文字づつ色を違えてくる。デジタルカメラを使って、家族写真を取り入れて、あるいは、子どもの写真を入れている。子ども達の写真を見ていると、ほほえましい。

 陶芸家から年賀ハガキを頂いた。手すきの和紙で作られたハガキ。画面一杯に振り返っている馬の版画を彫り、黒でハガキに刷り込む。「2002年春」の言葉は金色、そして、落款。3色刷となる。表の宛名書きは筆。「そうだ! 私は、このハガキを額に入れて1年間、この人の情熱を見つめよう」。

 他方で、表も裏も印刷の人がいる。文面は、謹賀新年やこれと類似した言葉と「本年もよろしくお願いいたします。」と言うだけのもの。このような年賀ハガキを見ると、「仕事が忙しいんだなあ、自分と同じだなあ」と思う。しかし、他方で、これならば、出さない方がいいのではないか、と思う。もしかして、私は、無理矢理、この人に年賀状を書かせてしまっているのではなかろうか。そうだとすれば、年賀状を出すことを私の方から止めてしまった方がいいのではなかろうか。

 丁寧な年賀状を頂く。お忙しいのに、一言を入れてあるハガキ。また、内容も自分の言葉で、絵もきれいに入れてあるハガキ。1年に一回のやりとりでも、心暖かいものが伝わってくる。見習いたい年賀状、だけど、見習えない自分。来年の年賀状は、「心を伝える」ことで、前進できるのだろうか。

 年賀状を出さない道もある。ハガキ1枚で、心を伝えることは出来ないし、まして、印刷で済ませるわけはない。空疎な年賀を大量に交換することに参加できない。他にも心を伝える方法がある。誠実に考えを突き詰めると、出さないことに行きつくだろう。私は、そこまで行っていない。しかし、紙一重なのかも知れない。

 ふと、横から声がする。「ごっちゃん、何をグダグダ考えているんだ。毎年12月はやってくる。皆、出す。俺は普通人。俺も出す。忙しい。印刷しかない。パソコンがあるから宛名はプリンター。まだ、生きているんだ、と言う連絡にはなる。1年を終わり迎える、楽しみにしていた正月休み。28日過ぎて書くことはない。家族で旅行も大切だ。去年は、ハワイ。今年は、国内でスキー。来年も来る。それでいいじゃあないか。」

 のう天気な奴だ。しかし、一つの見識だ。尽きるところ、年賀状、出すも出さぬも、いかに出すかも、いろいろ考えるかどうかも含めて性格だ。

2002.01.06(日)後藤正治 記

2002.01.17(木)加筆