黒白表現

 人を評価する場合、結論として良く評価するか、悪く評価するかのどちらかである。良く評価する場合、長所(白)ばかり挙げる人がいる。また、悪く評価する場合、短所(黒)ばかり挙げる人がいる。しかし、人は100%長所ばかり、100%短所ばかりという人はいない。だから、良い点と悪い点の両方を言うべきことになる。

 法律の論文のみならず、大学で論文を出題される場合は、このように人に対する評価と同様に、また、それ以上に賛否両論に分かれる。このような論文を書く場合、自分の説ばかりを書くのは、視野が狭い、配慮が足りないといわれても仕方がない。

 人から意見を聞く場合、黒白双方いうと説得力が上がる。また、論文を読む場合でも、反対説を上げて自説を説いてくれると分かり易く、説得力があると思う。

 自説だけだと意見が分かれる問題なのか、ない問題なのか分からない。かって、民事訴訟法ですが兼子先生の本と、三ケ月先生の本を読んだとき、三ケ月先生の本の方が兼子先生の本に比べて論争的で分かり易く、よく理解できた。だから問題について黒白双方を言うということを基本的に頭の中に入れておくことが大切である。

 ところで、評価の対象になる人を良く言いたい場合、短所を少し言い、長所を多く言うことである。短所を10〜30%・長所を90〜70%言うようにすると良い表現となり、理解し安くなる。逆に評価の対象になる人を悪く言いたい場合、長所を少し言い、短所を多く言うことが良く、長所を10〜30%・短所を90〜70%言うようにすると良い。

 次に、人を良く(白)言う場合、短所(黒)を先に言うか、長所(白)を先に言うかの問題がある。この場合、通常、短所(黒)を先に述べ長所(白)の方を後にいう場合が多い。これも一つの方法である。しかし、意見をはっきり言う必要がある場合、結論の長所(白)の方を先にいうべきだろう。とりわけ法律の論文では、この方が多いと思う。

 このように、黒い部分と白い部分というふうに図式的に考えることを「黒白表現」という。この名前は私が勝手につけた名称で、これにより灰色が表現できるようになる。文章に色をつけることができる。黒の方を多く言うか、白の方を多く言うかで灰色の濃さに変化が出てくる。

 「黒い部分と白い部分をいう」と明確に考えるようにすると、論文に起伏がでてくる。音楽は、低音部と高音部などによって構成されている。また、「絵画」に大切だといわれる陰の書き込みがある。文に陰を部分を書くことになり、文に立体感が出てくる。「黒白表現」は、文における「光と陰」の問題である。

 ところで、法律の議論は、あるテ−マについて自説(白)と他説(黒)の論争である。

 「説」は、「結論と理由」からなっている。自説だけ主張していると論文に起伏がなくなる。他説ばかり書くと影ばかり書くことになり、光の部分が弱くなる。だから、他説をほんの少し加えます。法律論文を読んでも、他説の紹介や参照文献ばかり書いて自分の意見がほとんどない論文を見受けることがあるが、こういう論文は、影ばかり書いて、光の部分が弱い。だから、「争いがあるが、」、「−−−のようにも考えられるが、」だけ影の部分を書いて、後は、自説の結論その中でも取り分け「理由」に力を注ぐ。料理に香辛料を加えるが、その場合、少量である。他説は、「香辛料」を振りかける程度でよいのである。そのうえで自説の中身を充分を述べると、良いのである。

 論点が数個ある場合の工夫も必要である。

 論文には、論点が3〜4個あるのが通常である。いつも黒を言ってから白を言う。または、白を言ってから黒を言うでは、文が単調となって迫力に欠けることとなる。このような場合には、黒白、白黒、白黒、黒白とか、その逆とか、種々組み合わせを考えることである。なかには、黒を入れず、白(主題、結論、理由)だけで書いても良い。

 論点間の論理的順序を考えること。論点には、前後がある。この順序を考えることである。

 1つ1つの論点の量を考えよう。論点が4つある場合、4つを等分に論述することは、平板になり、迫力に欠けることになる。4つのうちの1〜2は、重要な大きな論点の場合が多い。だから、15%、40%、30%、15%というように、論述の力の入れ具合をはっきりさせることだ。

1999.11.22(月)後藤正治 記

のぞみとニーチェ

 日本大学通信教育 経済学部3年のスクーリングで、私は、司法試験を決意した。しかし、定時制高校から続く豆腐屋の毎日は変わらない。自分が目指す弁護士への道と日々の生活は、余りにもかけ離れていた。こんな時に、ニーチェと出会った。ニーチェは、「星のモラル」を詩った。

星の軌道に予定されたお前には、星よ、暗黒は何のかかわりがあるか。
この時劫を貫いて、浄らかに進んでゆけ!
お前は時の不幸を離れ、遠くあらねばならぬ!
最も遥かなる世界に、お前の輝きはある。
同情は、お前に対する罪であるはずだ!
ただひとつの命令がお前には当てはまる、純粋であれと!

 そして、孤高の人生に、貫ぬく意思と行動を持て、と語った。私は、この言葉を胸に、豆腐を作り、豆腐を売り、司法書士になってからは事務所を開きながら、試験勉強をしてきた。昭和58年、豆腐屋時代の遙かなる世界であった弁護士になった。しかし、今、私は、燃え立つ意欲、ほとばしる希望を持って苦悩し、ひたすら歩む過去の自分と向き会うとたじろぐ。


 1966.7.1(金)P.M.11 記 22才
 今日も一日の仕事が終わった。P.M.7:52である。
 激しい戦いの後のむなしさ。600円という1日の成果の金(1日の豆腐売りの歩合給)を手のひらに見た時、さびしさ、かなしさ、つらさが、いや説明のつかぬ感情が、私の眼の中に水を数滴わき上がらせた。
 朝6:00より、正味13時間と52分、この間、勉強ができたのはたったの1.5時間だ。メシを食べながら本を読み、読みながらメシをくう。テレビを見るわけでない、新聞も廃除しているのに、すべての娯楽、すべての自由時間を自分の手で、自分より去らせているその結果で、今日の勉強がたったの3.5時間。余りにも、余りにもこれでは悲しいではないか。


 さらなる前進が求められ、のぞみ法律事務所を始めた。ニーチェとの出会いを意義づけ、再確認するため事務所1階にニーチェのブロンズ像、2階に「星のモラル」のレリーフを置いた。この詩を歌い、鋭く未来を見つめるニーチェ!

 過去を振り返るためでなく、私は、ニーチェと対座し、更なる人生への挑戦を自分に問う。

2009.12.21(月)後藤正治記

アロハシャツ

 九州から盗んだ車を運転して静岡県三島市まで来て、捕まった男がいた。私は、この男の国選弁護をすることになった。記録を読むと、アロハシャツも盗み、被害者に還付したとある。しかし、待てよ。彼と警察で面会した時の姿は、大きなハイビスカスが咲いたアロハシャツだった。「返して貰った。」と被害者の署名押印があるのだから、あのアロハは、別のものだろう。私は、2度目の面会の時、

『君、着ているアロハシャツ、持っていたんだね。』と聞いたところ、

「これは、盗んだものです。」という。

『被害者の方に返したんじゃあなかったの?記録には、返したことになっているんだがーー』

被告人「返したら、着る物がなくなってしまう。警察署で、そのことを被害者に話し、被害者も要らない、といってくれたので、形は被害者に返したことにして、アロハシャツは、貰ったんだ。」と言う。

彼の態度は、ふてくされて「刑務所でもどこでも行くさ」という投げやりのものだった。

 法廷で、何も正装する必要はないが、真っ赤なハイビスカスのアロハシャツは、刑事法廷に似合わない。しかも、盗んだアロハを来て、万が一、裁判官から、「そのアロハシャツは、被害にあったアロハシャツと似ているね。」と聞かれ、「これ被害品です。」と答えたら、被害弁償もされてないことが分かるし、私も弁護の仕様に困る。

 通常、犯罪事実を認めているケースでは、弁護人の活動は、被害弁償の努力を被告人側にさせることと、父や勤務先の上司や雇用主に、「毎日、仕事上、家庭生活上で指導します。」と、今後の指導監督を誓わせることが主な仕事となる。彼の親族は、九州だ。三島市まで、来てくれない。弁護の2本柱がともに消えている。

 そういえば、私には、もう若すぎる背広があった。 彼の背格好は、私と同じくらいだ。これを彼にやることにしようか。こうして背広を渡すことになった。しかし、背広だと、ワイシャツとネクタイがいるなあ。そうか、靴下も、靴も必要だ。下着もやらないと、一貫性がない。こうして一式を渡すことになった。

 彼は、赤いアロハから、すっきりした背広姿になった。法廷での態度も、捨て鉢な態度から素直な態度になった。情状証人で、指導監督を誓ってくれる人はいないし、生活の本拠は、九州で、三島から戻ることになるので被告人の言葉だけでは心許なかった。しかし、彼の神妙な態度が裁判官をして執行猶予の判決をもたらした。書記官が帰りがけに、「先生、いいことをされましたね。逮捕に続く勾留の際、私も接見に立ち会いましたが、裁判官に対する態度も悪く、ふてくされていましたので、私は、このままの態度では、実刑判決になると思っていました。」と言った。

 判決後、多くの被告人から「先生ありがとうございました。」と、感謝の言葉がでる。私は、本人の気持ちをそのまま受け取るが、手紙を貰うことはほとんどない。一度だけ、手紙を貰ったことがある。これは、イスラエルの女性を弁護した時だ。遠いイスラエルから御礼の手紙が来た。

 九州の彼からも手紙はなかった。彼は、今、どうしているんだろう。弁護士も、判決の時までで縁が切れる。それ以降、彼がどうなったか分からない。この事件、もう20年以上前になる。彼、いい父親になっているんじゃあないかと思い、良き人生を送って欲しい、と願う。この思い、裁判官、検察官にしても、同じだ。

2009.09.08(火)後藤正治記