本との出会い(資本主義の未来)

 パソコンのゲームは、次々と新しいものが生まれる。新しいルールと新しいやり方が必要だ。資本主義も新しいゲームが始まっている。そこには新しいルールがあり、ここで勝ち抜くには、これまでと違う戦略が必要だと説くのがレスター・C・サローの「資本主義の未来」(TBSブリタニカ)という本だ。産業革命は、農業中心に営まれていた封建社会を新しい領主である資本家とその軍団が支配する産業資本社会に変えた。新しいゲームが開始したことを認識できなかった封建領主などは、没落せざるを得なかった。資本主義は、かつて恐竜が絶滅して哺乳類の世界が始まった平衡断絶の時代のように新しい段階に入っていると説く。

 このような社会基盤が代わる理由は何であろうか。サローは、地質学のプレートテクトニクスの力のせめぎ合いからアプローチする。地球上を幾つかのプレートが覆っているが、このプレートの移動が大陸移動とひずみを造る。社会も同様だ。資本主義の要素であるプレートがゆっくりではあるがその基盤を動かし、やがて質的な変換をもたらす。共産主義の崩壊、資本社会から頭脳社会への変動、人口の増加と高齢化などがそのプレートであり、資本主義が生まれた時期から大きく動いているという。

 この本は、内容もさることながらアプローチの手法にも牽かれる。私たちは、プレートのひしめき合いの中に生きる。仕事や家庭のプレートの中で我々の精神界プレートは、軋みを立てる。中・高校生などがいじめにより自殺したりするのは、そのプレートの厳しさの中に沈み込まれていくことを表している。そして、我々が如何にしてプレートに対処すべきかを問われているように思える。

 私は、ある方から1冊、ある時は5冊と本を頂く。10冊をお贈り頂いた時は、家内ともども何が届いたのだろうかと、びっくりしてしまった。私は、この方にどのようにお返ししたら良いだろうかと考えた。結果は、今度は、私が感銘したりした本を、他の方々に頂いた本の数以上にお送りすることだと思った。「資本主義の未来」この本は、私が、知人に贈らせて頂いた本の一つである。

1998.5.2(土)静岡新聞夕刊搭載、後藤正治 記

本との出会い(若き人々への言葉)

 私は、昭和34年4月、中学校を卒業して、朝、豆腐を作り、昼、豆腐を売る、夜は、高校に通う毎日となった。どうして自分が夜の学校へ通わなければならないか、豆腐を売り歩く毎日なのか、割り切れない毎日が続いた。やがて日大短大の夜学から通信教育の経済学部へ編入学した。この通信の夏期スクーリングで司法試験に巡り逢った。しかし、豆腐を売り歩く毎日は変わらない。司法試験という希望を持つことができたが、他方で、自分の希望と現実との距離の遠さに愕然とする思いがあった。

 こんな時に出会った本が、「若き人々への言葉」(角川書店)だった。「星の軌道に予定されているお前には、星よ、暗黒は何のかかわりがあるか。最も遥かなる世界に、お前の輝きはある。同情は、お前に対する罪であるはずだ。」(星のモラル)という詩は、電光に打たれたような衝撃を私に与えた。この本は、ニーチェ全集のエッセンスとも言える本で、200頁ほどの小さな文庫本だ。この中に、人生論、友人論などがあった。私は、この本の全文を理解することはできなかった。しかし、自分に一言でいい、問いかけ、飛躍させてくれる部分があれば良かった。この本の叙事詩に溢れる生への意欲は、私の悩みきった精神界へ流れこみ挑戦への意志を与えてくれた。

 「彼方へ!ぼくは、行くのだ」(新しい海へ)。私は、この本をジーパンの後のポケットにつっこんで、三島市の谷田・大中島・小中島などへ豆腐を売って歩いた。今から思えば、弁護士に至る長い道のりをよく歩いて来たなあ、と思うが、「独力で行け」、ひたむきなエネルギーは、ニーチェによって与えられた。豆腐を売る姿は、私の苦しい思い出であるが、この本との出会いが心に光っている。

1998.5.9(土)静岡新聞夕刊搭載、後藤正治記

本との出会い(文学)

 高校生か大学生のころ、友人から「趣味は、読書だ」と聞き、また、先生から「文学を読むことは、人の教養を高める」などと聞いて、自分も本を読まなければならないのではないかと考えた。いつしか文学小説を読むようになった。日本文学全集や世界文学全集を片っ端から読み始めた。谷崎潤一郎、武者小路実篤、夏目漱石、スタンダール、ヘッセ、トルストイ、ドフトエフスキー、ゲーテ - – – – -。自分の気持ちに合わないものもあったが、感激しながら多くの本を読み続けた。

 しかし、40冊目とか、50冊目を読み始めたころから、虚しさが込み上げてきた。私は、こんなに本を読んで、どういう人間になるというのだ? 確かに、教養は、上がるだろう。しかし、私の中心的な悩みである職業問題からの離脱に切り込み、解決することができるのだろうか。5年経ち、10年経ちして日本文学全集や世界文学全集を全部読み上げたとして、それが何だというのだ。「君は、教養がある。」ただそれだけで終わるのではなかろうか? また、読書が趣味といっても、本の分野は、極めて多い。文学は、その一分野に過ぎないのではないか?こうして、私は、文学から急速に離れていった。

 本を読むことは、今も続いている。私の本との出会いは、この「私にとって本を読む意味は何だろうか」という基本的観点から生まれてきている。

1998.4.18(土)後藤正治 記

頭脳を研ぐ

 ナイフを研ぐように自分の頭脳を研ぐことができないだろうか。カミソリが切れるような鋭い頭脳になれないだろうか。試験勉強が激しくなるにつれこのようなことを思うようになった。

 私が日大三島商経科夜間部へ通学していた当時、歴史学の教授に軽部先生というが方いらっしゃった。この先生が「頭は使えば使う程良くなる。」と言われた。これを聞いたとき、そのようなことは他人事で「そうかなあ」と聞き流していた。

 三島北高夜間部4年生のとき担任の先生から君は上の下か、中の上だと言われ、大学に入ってからも私は優秀な学生ではなかった。経済原論を一頁から読み始めても一頁の終りころになれば早くも疲れて嫌になってきた並み以下の学生だった。

 しかし、家業の豆腐屋を脱するには勉強しかないと思い、懸命に勉強をするようになってから、能力のレベルアップができないものかを必至に考えるようになった。これは、「自分は駄目な男なのではないか、いやでも豆腐屋をやるしかないではないか」という自己の能力への懐疑に対する回答のためにも必要だった。

 そこで、いろいろ考えてみると、同じ自分でありながら、試験が近付いて来ると緊張感が高まり、勉強の集中力、記憶力、持続力が普段のときより格段の高さで存在することに気が付いた。この試験直前の能力水準が普段に存在すれば、自分は優秀になれる筈だ。低レベルの谷の部分をこの試験直前のハイレベルで埋めることができれば試験も軽く突破できる筈だと意識した訳である。そこで、実際に存在する「もう1つの自分に近付づこう」と努力し始めた。

 「もう1つの自分」は、重要だ。ある優秀な人を見習え、というものではない。怠惰な自分の中にときどき訪れる緊張感ある自分に、存在する能力を見る。この能力は、自分に1週間で何回来るのだろうか。何時間来るのだろうか。1ヶ月ではどうか。1年ではどうかである。私は、1年に10日とか、20日しか現れていなかった。優秀とまではいかないが、怠惰な自分とは違うもう一つの自分の存在を認識した。この訪れる能力が、1日増えたら、2日、1週間、1ヶ月増えたら自分の能力は何倍になるだろうか。365日とまではいかないが、少しづつ、増やしていこう。そうすれば、自分は、2倍、3倍、10倍、20倍の能力となる。

 如何にしたらかかるハイレベルの自分になれるだろうか。試験直前の緊張感を作るにはどのようにしたらよいのだろうか。試験になるとなぜ緊張感が高まるのだろうか。頭脳を研ぎ磨く研石は自分にとって何だろうか。種々考えた。

 試験は、「試験に合格しないと将来が危うくなる」といういわば「外から強迫」が接近するために自分に緊張感が増すのではないだろうか。そうだとすると「普段に自己による自己への強迫」をすれば良いではないか、と考えた。そこで、強迫の材料は何があるのだろうかを次に考えた。

 私は、私に対して「お前は豆腐屋をやりたいのか、いやなら勉強をしろ」とか「お前より成績の悪かったやつが昼間の大学へ行っているぞ、お前は悔しくないのか」など誇大に悔しい材料を探して毎日自分に言い強迫し続けた。

 このような状態は、他にもないだろうか。私たちは、馬鹿にされると非常に悔しくなる。「友人、知人、先生などに馬鹿にされる」と「なにくそ」と思う。そこで「馬鹿にしてくれるいやな奴。涙するほど悔しい奴。」は「俺を磨いてくれるありがたい奴」だ。「馬鹿にしてくれるうれしい奴」と敢えて会うようにすることが良いではないか、と考えるようになり、そのような人と会うことにした。

 また、その人の前に立つと自分が緊張してしまうような若干苦手な人がいるか、いるなら出来る限りその人に会いに行くようにする。そして、自分の緊張感をみがく磨くのである。

 失恋も勉強を奮い立たせる大きな材料である。父の倒産、父の失業、父母の死、こういうものすべてを勉強の集中力、持続力、ガンバりのバネになる。辛いこと、悲しいことは、砥石になる。

 砥石ばかりではなく、砥石を使って磨く方法を研究した。自己強迫や辛いこと、悲しいことばかりを求めてばかりいないで、研ぐスタイルを考えねばならない。これは内的思考力の向上である。

 この場合、なんでも「なぜ」を考えることだ。私は、「なぜ」を良く考えた。

 「なぜ、豆腐屋をやらなければならないのか」「なぜ、なぜを考える必要があるのか」「なぜ、自分は行動ができないのか」「なぜ、なぜ、なぜ−−−」なぜを考える対象があれば一切がっさいなぜを考え、毎日毎日なぜを考えるようにした。これをノ−トに表わし、「なぜ」と「答え」を発展させた。なぜ、や、何かひらめいたものがあった場合には、すぐノートに取り、考えた。

 このような思考は、

1) 「なぜ」の回答として「仮説」を自己に作るきっかけとなり、「仮説」が生れてゆく。

2) この「仮説」がその後の体験・思考により「仮説」が検証され、確定した「自説」として固まっていく。

3) 更に、これが基盤となって「なぜ」が更に、発展して行き、

4) 個々の関係ないかのように見えた、孤立していた知識は、互いに握る手を持つようになる。

5) 知識と知識は繋れて行き、連続する2進思考が可能となる。

6) 法律の勉強でも「なぜ」を考えた。法律の勉強の場合「なぜ」を考えなければならない。法律の勉強の方がもっと多くなぜを考えた。立法趣旨を考え、立法趣旨から条文を考えて行く。勉強の方法はどのようにしたらよいのか。効率的な勉強の方法はないのか。私の思考は、法律の勉強で磨かれた。

 更に、関連的な思考をした。本を読む時や考える時、本の頁の順序や人が言っている順序に拘束されず、自分の自然に考える順序を探し、その順序で本を読み、考える。例えば、生物の勉強の場合、生物の「種の保存」を中心目的と考え、植物のでは、種−発芽−成長−開花−結実−種の順序で考える。これをすべての学問、すべての事がらで考え、思考する。こうすることで、思考が鋭く追求力と理解力、記憶力が高まっていった。

 パラレルな思考も大切だ。1つの出来事をそのことだけで、思考すると、理解力、記憶力が弱い。類似したもう1つ、2つ、3つ、4つーー、考えられることをパラレルに思考する。パラレルな思考は、物理的には頭脳に負担が増加するように見えるが、むしろ、理解力が早く、強固になる。記憶力は、認識力に変わり、記憶が高まっていく。面白いものである。

 私は、このようなことを考え、また、その他、いろいろ工夫しながら、自己の頭脳を研いだ。磨いだ結果としての私のレベルは、大したことはないが、頭脳は研げるし、磨くことができる。

1988.01.11(月)後藤正治 記

2019.07.18(木)追記

黒白表現

 人を評価する場合、結論として良く評価するか、悪く評価するかのどちらかである。良く評価する場合、長所(白)ばかり挙げる人がいる。また、悪く評価する場合、短所(黒)ばかり挙げる人がいる。しかし、人は100%長所ばかり、100%短所ばかりという人はいない。だから、良い点と悪い点の両方を言うべきことになる。

 法律の論文のみならず、大学で論文を出題される場合は、このように人に対する評価と同様に、また、それ以上に賛否両論に分かれる。このような論文を書く場合、自分の説ばかりを書くのは、視野が狭い、配慮が足りないといわれても仕方がない。

 人から意見を聞く場合、黒白双方いうと説得力が上がる。また、論文を読む場合でも、反対説を上げて自説を説いてくれると分かり易く、説得力があると思う。

 自説だけだと意見が分かれる問題なのか、ない問題なのか分からない。かって、民事訴訟法ですが兼子先生の本と、三ケ月先生の本を読んだとき、三ケ月先生の本の方が兼子先生の本に比べて論争的で分かり易く、よく理解できた。だから問題について黒白双方を言うということを基本的に頭の中に入れておくことが大切である。

 ところで、評価の対象になる人を良く言いたい場合、短所を少し言い、長所を多く言うことである。短所を10〜30%・長所を90〜70%言うようにすると良い表現となり、理解し安くなる。逆に評価の対象になる人を悪く言いたい場合、長所を少し言い、短所を多く言うことが良く、長所を10〜30%・短所を90〜70%言うようにすると良い。

 次に、人を良く(白)言う場合、短所(黒)を先に言うか、長所(白)を先に言うかの問題がある。この場合、通常、短所(黒)を先に述べ長所(白)の方を後にいう場合が多い。これも一つの方法である。しかし、意見をはっきり言う必要がある場合、結論の長所(白)の方を先にいうべきだろう。とりわけ法律の論文では、この方が多いと思う。

 このように、黒い部分と白い部分というふうに図式的に考えることを「黒白表現」という。この名前は私が勝手につけた名称で、これにより灰色が表現できるようになる。文章に色をつけることができる。黒の方を多く言うか、白の方を多く言うかで灰色の濃さに変化が出てくる。

 「黒い部分と白い部分をいう」と明確に考えるようにすると、論文に起伏がでてくる。音楽は、低音部と高音部などによって構成されている。また、「絵画」に大切だといわれる陰の書き込みがある。文に陰を部分を書くことになり、文に立体感が出てくる。「黒白表現」は、文における「光と陰」の問題である。

 ところで、法律の議論は、あるテ−マについて自説(白)と他説(黒)の論争である。

 「説」は、「結論と理由」からなっている。自説だけ主張していると論文に起伏がなくなる。他説ばかり書くと影ばかり書くことになり、光の部分が弱くなる。だから、他説をほんの少し加えます。法律論文を読んでも、他説の紹介や参照文献ばかり書いて自分の意見がほとんどない論文を見受けることがあるが、こういう論文は、影ばかり書いて、光の部分が弱い。だから、「争いがあるが、」、「−−−のようにも考えられるが、」だけ影の部分を書いて、後は、自説の結論その中でも取り分け「理由」に力を注ぐ。料理に香辛料を加えるが、その場合、少量である。他説は、「香辛料」を振りかける程度でよいのである。そのうえで自説の中身を充分を述べると、良いのである。

 論点が数個ある場合の工夫も必要である。

 論文には、論点が3〜4個あるのが通常である。いつも黒を言ってから白を言う。または、白を言ってから黒を言うでは、文が単調となって迫力に欠けることとなる。このような場合には、黒白、白黒、白黒、黒白とか、その逆とか、種々組み合わせを考えることである。なかには、黒を入れず、白(主題、結論、理由)だけで書いても良い。

 論点間の論理的順序を考えること。論点には、前後がある。この順序を考えることである。

 1つ1つの論点の量を考えよう。論点が4つある場合、4つを等分に論述することは、平板になり、迫力に欠けることになる。4つのうちの1〜2は、重要な大きな論点の場合が多い。だから、15%、40%、30%、15%というように、論述の力の入れ具合をはっきりさせることだ。

1999.11.22(月)後藤正治 記