第102回判例研究会

月1回の判例研究会の第102回は、2021年1月27日開催され、判例時報2450~2454号から4判例が報告された。

1事例目は、被相続人の死亡を知って3か月以内に子3人が相続放棄をしようと考えたが、誤って1人だけが3人分の収入印紙を貼付して申立てを行い、3か月経過後に市の職員から各自の申立てが必要であることを教示されて残る2名が相続放棄の申述をした事例(東京高決令和1年11月25日)。原審は期間経過後の申立てであるとして不適法却下したのに対し、高裁は特別の事情があるとして市の職員の教示から3か月以内に申し立てればよいとした。本件は家裁の申立時に取下げを促されていたが、高裁で争うことを前提に申立てを完遂することも重要である。

2事例目は、長谷川式11点でグループホームに入居する87歳女性について、長女による財産管理が不適切であるとして長男が成年後見を申し立てたところ、本人が成年後見開始を拒否する直筆の手紙を裁判所に送付して調査官調査・鑑定を拒否した事例(大阪高決令和1年9月4日)。原審は診断書の信用性に疑義があるため鑑定が必要だが鑑定を実施できないため、申立てを却下したが、高裁は、診断書の疑義は誤記にすぎないと認められることや、経済的合理性のない高リスク投資を開始しており直筆の手紙も本人の意思に基づくものか疑わしいこと等を考慮し、鑑定をするまでもなく後見開始の常況にあるとした。実務では、一人の相続人に完全に囲われてしまい、診断書の取得すら覚束ないことが多々あるが、参考になるケースである。

3事例目は、民事裁判では第1回期日において答弁せず欠席した場合、訴状記載の事実は争いないものとみなして勝訴判決をすることが法律上可能であるが、被告が複数いる事件で、相被告から反論の答弁がなされているのに被告のうち1社だけ欠席した場合に、その被告についてのみ裁判分離・勝訴判決をすることが違法とされた事例(東京高判令和1年11月7日)。

4事例目は、婚費分担審判の申立後、決定前に当事者が離婚した場合に、婚費請求権が存続すると判断した事例(最決令和2年1月23日)。

東日本大震災 法律相談日誌3

2011(H23)年4月30日 法律相談第1日目(後半)

 Yは、津波にのみこまれ、悲惨な状況だ。A避難所、B避難所の近くは、津波の痕跡があまり見られないので、津波がどのようにきたのか、不思議な感じもしたが、Yは、違った。

 山並みを抜けて、海が見える被災地に入っていく。道路の脇にある崖地や平地と接する山を見ると、この斜面の木々に赤、青、白、茶色など多様な色の紙、プラスチック、板などがひっかかっている。この位置は、自動車の高さの6〜7倍以上もある場所である。津波によるいろいろなものが打ち上げられている。道路を走っていくと、両脇の道路上の各地に津波予想区域が設定され、標識が設置されている。10m、場所により20mの高さではないかと思うほどの位置に設置されている。このような高い位置が津波の想定高さかと驚くと共に、この位置より同じか、少し高い位置に津波の痕跡が残っていた。津波の被害は、やはり歴史を繙き、津波の高さを知ることだと思った。テレビでは放送されない状況やテレビでは伝達できない肌で感じる埃や匂いなど悲惨さが凄い。

 次に向かったD避難所には津波で家族も家も職も失った二人がいた。二人とも、何も考えられないという状況であった。法律相談以前である。放心状態、虚脱状態を減じてやることができるかもしれないと思い、地震と津波の状況や苦悩を聞いてあげるしかできなかった。

 帰りの時間となった。集合場所の食事場所をナビに設定するためにパチンコ屋に寄ったところ、T弁護士車両が止まっていた。T弁護士が「パチンコ客が大勢だ。一杯だ。」と言う。私もトイレ名目で中に入った。6列くらいのパチンコ台通路がある。パチンコ台が向かい合って並んでいるので、椅子も通路の両サイドに並んでいる。椅子に座った客数はほぼ満席である。各列を見たところ80%位が埋まっていた。避難所には、人はほとんどいないので、法律相談は、手応えを感じることができなかったが、ここには大勢の人が集まっている。法律相談は、ここでやるべきなのか。一方で、津波に困り、他方で、パチンコに興ずる。津波の大被害からまだ50日である。1回5000円〜10000円使うこの遊びに、どのような考えの下で行くのか、としばし口が尖った。私は、非難派だったが、WさんとH弁護士は、弁護派だ。「仕事もない。テレビも付かない。遊び場所やストレスの発散場所がない。悲嘆にくれる状況下、パチンコをやって時間の過ぎるのを待つしかないときがある。なんで、悪いんだ。」それもある。数人がいるといろいろ意見が出る。ありがたいことだ。

 1日目の相談が終わり、海援隊15名が自己紹介と反省会を開く目的で、中華料理店で落ち合うことになっていた。午後8時ころ着いた。自己チーム以外は、初対面である。みな自己紹介となった。それぞれ、個性派の情熱ある弁護士である。九州から来た女性弁護士は、ボス弁に黙って今日、ここへ来た。九州から羽田へ、そして、羽田からバスを乗り継いで来たという。感嘆した。我々は、自動車で、6人できた。14時間かかったが、福岡からの遠さと時間に比べると容易なものだ。そして、一人での行動は、精神的負担が我々以上に大きい。これを彼女のエネルギーと行動力で乗り越えてきたことに頭が下がった。

 テレビ局「ガイアの夜明け」のマイクやテレビカメラは苦手である。明日もあるので、長時間の打ち合わせができない。もっと、隊員たちの思いを聞きたかった。

 9時40分頃、旅館に帰着。帰ってから喉がいがらっぽい。風邪以上の原因を心配して、うがいをしっかり、手も洗う。お疲れさん会を開く。日本酒を飲み、うがい代わりとする。ここで、12時就寝。

2011.4.30(土)後藤正治 記

第101回判例研究会

月1回の判例研究会の第101回は、2020年12月17日開催され、判例時報2445~2448号から5判例が報告された。

1事例目は、母親に観護される2名の子(9歳、6歳)と、父親の面会交流に関する事件である(大阪高決R1.11.8)。父親が女性と頻繁に連絡を取るなどしたため別居が開始したが、復縁を目指すこととなり、家族でハワイ旅行に行ったり、母親の親族の結婚式に夫婦で参列したりして、修復の兆しが見えた矢先、実は父親が別の女性と交際しており母親がその女性と偶然対面、母親が心身不調となり離婚を求めるに至った。子らは、現在も父親を慕い会いたいと思う一方、母親の心中を慮って会うことを躊躇するという忠誠葛藤に陥っていると、裁判所は認定し、裁判所が父親との面会を命ずることで、子らの心理的負担を解消しようとした。子らの意見は、前回の面会交流事案と大きく異なるが、結局は日頃の行いということか。

2事例目は、詐欺師であるとブログに記載された者が、投稿者に対し、名誉棄損であるとして、弁護士代理のもと刑事告訴、訴訟提起を行ったところ、後に真実詐欺師であったことが発覚。弁護士の代理行為が不法行為にあたり、弁護士に損害賠償責任があるかが争われた(東京地判R1.10.1)。弁護士の受任時の調査で、詐欺師と看破できなかったことに過失はないとして、弁護士に責任はないとされた。弁護士は、依頼者に対し、有利・不利を問わず事実を教えてもらいたい、そのほうが依頼者により良い善後策を提供できると伝えるが、本事案のように従って貰えないケースも時々ある。

3事例目は、大学院の学費、10年間の留学費用等が、扶養の範囲であるか、あるいは持戻免除の黙示の意思表示があったとして、特別受益と認められなかった事例(名古屋高決R1.5.17)。

4事例目は、先行遺産分割協議にて200万円と3300万円の不均衡分割に合意した後、新たな遺産が発見されて遺産分割を行う際は、先行協議は遺産分割として完結しており、その後の清算は予定されていなかったのであるから、先行協議で各自が取得した財産の価額(の不均衡)を考慮するのは相当でなく、新たな遺産は本来の相続分に応じて分割するのが相当とされた事案(大阪家審H31.3.6)。

5事例目は、湖東記念病院人工呼吸器事件の再審無罪事件(大津地判R2.3.31)。ニュース報道程度の知識しかなかったが、再審弁護人によると、違法捜査や証拠隠し、警察官が弁護人を誹謗中傷して信頼関係を破壊、大阪高裁の有罪誘導尋問など、様々な問題点があったとの報告であった。また、第一審弁護人は、ほぼ毎日接見し、接見の度に被告人は否認に転じていたこと、事故の可能性を医学的に立証しようとしていたことなど、できる限りの努力をしていたようである。同様の事件に当たった場合、弁護人として何ができるか、身につまされる思いである。

第99~100回判例研究会

月1回の判例研究会は、第99回が2020/10/27、第100回が2020/11/30に開催された。

第99回は、改正民事執行法の実務上の諸問題について、e-ラーニング研修を受講した。今回の改正は、実務家やその依頼者にとって、とりわけ財産開示手続・第三者からの情報取得手続が重要である。裁判には勝ったが回収まで至らないケースで、有効な方法であるため、参加者は熱心に手順を確認し、議論した。
なお、Zoom利用の併用は、支障なく実施できた。

第100回は、判例時報2442、2443号から4判例が報告された。
1事例目は、母親に監護される3名の子(15~10歳)と、父親との面会交流に関する事件である(東京高判R1.8.23)。父親は、子との面会時に、子の意向に反して父親の親族の集まりに参加させたり、性風俗店に通っていたこと(夫婦関係破綻の一因)の言い訳をしたり、母親の悪口を述べるなどしていたため、子が父親と面会することを強く拒絶するようになったが、父親は母親の差し金で面会拒絶するようになったと疑っていた。裁判所は、調査官が子の意向を直接確認し、直接の面会は妥当でないと判断したが、間接的な交流として、母親に対し、子の成績表や写真の送付のほか、子の電子メールのアドレスおよびLINEのIDを通知することを命じた。子らが抵抗感を感じるであろうことを十分考慮しても、関係修復のための連絡手段の利用を認める必要性は高く、それによる具体的な弊害が大きいわけでもないという理由である。別居親の側で求めうる間接交流の方法として参考になる事案であった。
2事例目は、文書提出命令に関する事例判断(大阪高決R1.7.3)
3事例目は、犯人性を争点とする間接事実型の刑事無罪事件(東京高判R2.1.23)
4事例目は、社労士が強制執行を免れる目的で設立した社労士法人につき、法人格否認の法理により社労士の2000万円の債務を社労士法人も負い、更に、社労士法人に1万円を出資して社員となった社労士の元従業員も、社労士法上の連帯責任の規定により2000万円の債務を負うとされた事案である(東京地判R1.11.27)。控訴されており、控訴審の判断にも関心を抱かざるを得ない事案である。


東日本大震災 法律相談日誌2

2011(H23)年4月30日 法律相談第1日目(前半)

 5時半に目覚めた。出発前日の4月28日まで、沼津の事務所で仕事に追われていたため必要な道具をどの荷物に入れたか、あまり確認しないで出かけてきた。バックの中身を確認したところ、わからないこと多数ある。

 携帯電話の充電用ソケットがなかった。携帯電話の補助電池がポケットに入っていた。レンタカーにシガーソケットはないが、パワーアウトソケットはあった。ここに差し込めるのは、ホンダ規格で一般のものは使えない、ということだった。しかし、これは、おかしいと思っていたが、やはり一般的なシガーソケットだ。シガーソケットから一般電気機器の差込口がある接続機器を初めてX市役所で試してみることにした。

 6時30分に食事し、6時55分に旅館を出た。弁護士海援隊の集合時間は、出発前日、7時25分に変更された。午前6時30分から55分ほど遅れた時間に変更されたのは、3月11日から50日経過し、道路網などの整備が若干進み、目的地に向かう時間の短縮ができそうだ、ということが理由だった。集合場所は、Jホテルである。ここには、7時20分に到着した。参加人数は、東京6、横浜1、大阪1、九州1、静岡隊6名の15人だった。海援隊は3組のチームに分かれ、それぞれのチームは、別々の避難場所を巡る。静岡隊6名は、静岡隊だけで1チームを構成し、2台の自動車で回る。東京テレビの「ガイアの夜明け」という番組のクルーがきていた。これからクルーがN隊長チームの1台に5日間、密着取材とのことだ。この「ガイアの夜明け」は、後日、放映されたことを知った。

 3チームは、X市役所に着いた。市役所は、高台にあった。市役所の周りには、津波の悲惨さを知らないかのように桜の花が咲いていた。「のどかな春をつげるかのようだ。」しかし、車のドアを開けると、臭気が駐車場全体を覆っていた。「これがヘドロの臭いか、何の異臭なのだろうか。」これから向かう場所は、被災地に近づくことになるので、更に臭気が激しくなっていくのか、と案じた。静岡隊の午前の担当は、A避難所とB避難所であった。19時に集合ということで、それぞれのチームに分かれて散会した。

 A避難所では、多勢のボランティアが炊き出し用の野菜を洗い、切っていた。臭気はなかった。津波の惨状は余りなく、被災場所とは思えない気がした。責任者にお会いした。静岡から来た弁護士であること、事情を伺い法律相談をしたいご希望であれば、受けたいことを伝えた。

 避難されている方々は、1Fと2Fに分かれているとのことだった。T弁護士とN弁護士は、1Fに、H弁護士と私は2Fに向かった。2階の避難所は、80畳くらいの広さの和室だった。入り口で挨拶をした。しかし、老人が3人だけであった。どうしてなんだろうか。私は、Sさんと言う方と話した。しかし、88歳でしかも耳が悪い、方言も強い方なので3分の1しかわからない。耳を近づけ、くり返しくり返し会話を確認しながら、伺った。お住まいの家は、近い、家に行けば片づけをしている家族がいるから、そこへ行けばよいとのことだった。生活を支えているのは、若い人達である。お住まいに尋ねることにした。金融機関の前の家とのことであった。A避難所から間近であった。Sさんの家に行ったが、誰もいない。中に入っていった。家の中は、泥で埋まっていた。しかし、人はいない。津波は、この家の1.5mの高さまで、来ていた。この高さは、家族の生命にも影響がなかったかと思われた。

 Sさんを訪ねるため、近所の家を訪ねSさんの家はどこか、を聞いたところ、この家では、家の改装をやっていた。家の構えは良くKさんという方だった。Wさんは、彫刻家の立場で仏像などの木像の損害や修理を聞いていた。彼の相談は、修理を受けることまで行くようだった。

 次のB避難所に向かった。B避難所は、要塞のような頑丈な作りで、高台に作られていた。所長にお会いした。ご苦労が多いことを伺った。ここは、広く、避難者は、1Fと2Fに分かれていた。

 まず、お話を伺ったのは、足の悪い方だった。足が悪いので、正座できないと謝罪された。話を進めると、すぐにアナウンスがあった。「支援の名目で、銀行口座番号を聞いたりするとのことで注意してください。」とのことであった。何か、私たちのことを言われているようなまずいタイミングであった。しかし、続いて「弁護士の方が来られたので、相談があれば、相談されて下さい。」とのアナウンスがあった。ホッとはするが、このような悲惨な状態下、詐欺行為を行う奴が出向いてくるのか、と非道さに憤りを感じる。掲示板があった。ここには、安否を問うものや多数の連絡事項の紙が貼られていた。

 相談者の二人目は、夫婦であった。自動2輪の販売をしている人で、7人家族。5名の息子夫婦は、仮住宅の入居ができた。しかし、自分たちは仮住宅へ移転できないので、避難所でいるしかない。3人目の方は、奥さんが中国の吉林省の人だった。ローンの支払いがあるが、困った。この支払いは、止めることと回答したが、なくなるわけではない、と話が続いた。最終的には、立法化である。4人目の方は、奥さん、息子、娘、子供の5人だった。話をするのがいやであるとのことのようだった。地震と津波で放心して、法律相談をするまでもなく、話す気力もない。相談するというのは、解決に向かう気持ちがあることであり、激しいショックでボーッとしてしまっている状況からの脱出がまず不可欠なのである。

 C避難所に向かった。しかし、東京弁護士会3会が来ていたとのことでアンケートを頼んで帰った。

 その後、どこへ行くか、1班、2班を電話で聞き、Yへ向かうことにした。思いのほか、遠く16kmあった。道を間違えたりしながら、たどり着いた。